【青春スポーツ小説】「この世に女はいないと思え」第9話 

スポーツ小説

春也は走った。練習中はもちろん、意識して他の部員より多く、集中して走ることにしたし、練習後疲れていても、体中が痛くても、一人でグラウンドをダッシュした。たまに練習が休みの日には、ウエイトトレーニングの前に、一人でグラウンドに出て、50m、100mと何本もダッシュを繰り返した。蝉の音が溢れる夏の夕暮れのグラウンドで、自分も蝉のように脱皮したかった。自分の嫌いなものをスタート地点に置いて、余計なことは何事も考えずに走れているような気がした。

無暗やたらに走るだけでなく、春也は走るフォームに特に気を付けるようになった。練習を録画したビデオを見て、無様に走る自分を知っていたし、荒藤から事あるごとに、

「膝が全然上がってない。顎引いて腕をもっと振れ。背筋をしゃんと張れよ、なんだその走りは。みっともない。」

などと指摘を受けていた。自分のフォームでは速く走れないということは春也にも分かっていた。胸が反り返り、体に比較して大きな春也の頭が重そうに後ろに引っ張られるフォームは、入部当初より大分ましになったものの、やはりまだ残っていた。それを変えるために、腹筋・背筋を始めとする体幹のトレーニングには特に力を入れた。頭を支えるために首の筋肉も鍛え、膝を高く上げて走るために、腿の付け根の筋肉も付けたし、スピードを上げようとするとがに股気味になる癖を無くそうと、内転筋の強化にも努めた。高校時代に陸上部で短距離をやっていたという部活の同期に頼んで、練習後に走るフォームを見てもらったりもした。

8月の中旬、いつもは午後に練習があるのだが、その日は午後のグラウンドが使えないという理由で、練習が午前中になった日があった。いつもは練習後のミーティングが終わるともう夜9時頃で、後は飯を食って風呂へ入り寝るだけで一日が終わってしまうのだが、その日は午前中に練習が終わったことで、午後をまるまる自由に使えるというためか、練習後の更衣室では皆にどこかうきうきしたものが感じられた。実際、何人かの部員達は、この後海へ行こうか、それとも街へ出ようか等と相談している。

そんな皆を後にして、春也はその日も陸上部出身の同期に走るフォームを指導してもらおうと思い、シャワーを浴びずに更衣室を出ていこうとすると、

「おい、そんなに急いでどこ行くんだよ。まあいいわ。シャワー浴びたら、とりあえずお前んちに行くから、待っとけ。飯行って、それからどうするかだな。」

と荒藤が声を掛けてきた。午後練習が無いということで、荒藤もまた何となくうきうきしているようだった。

「おれはこれから柳井に走り方見てもらうんだよ。だから下宿に戻るの遅くなるが、それでもいいなら一緒に飯行くが。」

「ふーん。お前が走り方ねぇ。」

荒藤はいつも春也の走り方について文句を言ってくるくせに、その時は興味が無さそうに言った。最近春也が走り込んだり、ウエイトトレーニングに精を出しているのに気付いた他の部員達は、

「おまえ最近やってんな」

とか

「お前の頑張りはすごいわ」

などと春也を多少なりとも褒める言葉を掛けてくる者が多かったが、荒藤だけは一切そういう言葉を掛けてくることはなかった。むしろ、そういう言葉を掛けてくる部員の横で冷ややかな視線をこちらに向けていた。その視線はまるで、何も結果を出していないくせに、自分は頑張っているなどと思うなと批判されているように春也は感じていた。

「まあいいわ、じゃあ俺も少し走るか。佐崎も誘うか。でも練習後に走るのはしんどいな。」

と一人で荒藤は決めて、結局4人で走ることになった。いつもはそのまま練習しているグラウンドで走るのだが、その日は気分を変えて、大学構内の離れた場所にある陸上のトラックで走ろうということになった。4人がトラックに着いた頃には、まだ頭の上でぎらぎらと照りつける真夏の太陽のせいで、練習ですっかり出切ったはずの汗が再び体中に浮かんでいた。昼の12時を少し過ぎた頃であったが、400mトラックを走っている陸上部員と思われる男女が何人もいる。練習の疲れが溜まっているとも感じていたし、その日はフォームを見てもらうだけにしようと春也は考えていたが、荒藤と佐崎が加わったことで、フォームを見てもらうことは後日にまわされ、結局4人で一緒にトレーニングをすることになってしまった。

「せっかくトラックに来たんだし、今日はいつもと趣向を変えて200mとか400mとか少し長い距離を走ろう。」

と陸上部出身の柳井が言うと、

「何もそんな長い距離を走らなくても、50mとかでいいだろ。100mダッシュなら練習でやっているし。」

体重があるせいか、長い距離をダッシュするのはあまり得意でない荒藤が反論した。たしかに、アメフトではそんなに長い距離を走ることはない。どんなに長く独走しても100m弱だし、通常は20~40m位しか走らないのではないか。春也も練習で疲れていたし、その日長い距離のダッシュは必要ないと思ったが、

「いや、長い距離を走るのは必要だよ。長い距離をダッシュすることで、自分のフォームのどこが一番初めに崩れてくるのか、弱い部分も分かる。」

と柳井が言うので、結局4人は200m5本と400mを5本走ることにした。もう一度軽くストレッチした後、柳井の合図で200mダッシュを始めたが、最初の一本を走り切ったところで、すでに足がガクガクと震え、息が苦しかった。練習ですでに疲労が溜まっていたし、練習中のヒットの衝撃で体中のあちこちが既に痛かった。加えて、夏の太陽が照りつけるゴム製のトラックは、春也達がいつも練習する土のグラウンドとは違った熱気を持っていた。サウナのような熱気が地面から上がってきて、酸素不足と相俟って頭がくらくらした。

それでも、春也は無理をして走った。その日は、荒藤達が一緒に走っており、良いところを見せたいという気持ちもあったし、周りで走る陸上部の連中の目も気になった。陸上部の連中も、いつは自分達だけのトラックに、体中土で汚れた見慣れぬ男達が走っていることで、先ほどからちらちらと春也達の方を見ていた。200mを5本走り終わったところで、

「俺はもう無理だ。大体練習後にトレーニングをやるというのがそもそもおかしい。練習の最後にトレーニングは組み込まれているし、練習後に走れるというのは、練習でちゃんと出し切っていないということだ。俺などは練習できっちり追い込んでいるから、こういうトレーニングは必要ない。むしろやってはいけないんだ。休むのも練習だ。」

荒藤がトラックに大げさに倒れこみ、仰向けになって言ったが、地面の熱さに耐えかねたのかすぐに起き上がって肩で息をついていた。たしかにそれはそうだろう。練習で十分過ぎるほど体力は消耗していたし、練習以外に走り込んでも逆効果なのではないかと常々春也も思ってきたが、それでは一向に差が縮まらないような気がして練習以外でも走ることにしていたのだ。その効果を今まで感じることはなかったが、今初めて春也は今までの走り込みの成果を僅かに感じていた。先ほどから春也もばててはいるものの、もう動けないという程のしんどさはまだ感じていなかった。200mの1本目では、佐崎、柳井に大差をつけられてゴールしたが、本数を重ねるごとにその差は縮まっていった。ランニングバックという走ることが最も重要なポジションにある春也としては当然のことなのかもしれぬが、何本目からは荒藤より先にゴールしている。

400mを走り出してからはそれがさらに顕著で、佐崎と柳井のスピードが急に落ちてきたのに比して、春也のそれはさほど変わらなかった。荒藤も一応走ってはいるものの、200mを越えたあたりからは、ダッシュには見えないような走りになっている。春也、佐崎、柳井はほとんど同時に400mを走り、遅れて荒藤がゴールするような形になった。

「なんなんだお前、しんどくないのか」

400mを3本走り終わったところで、荒藤がぜえぜえと喘ぎながら聞いてきた。

「しんどいに決まってるだろ」

春也はなるべくしんどさを見せないように荒藤に答えた。実際、3本目を終えたところでは、膝ががくがくと震え思うように体が動かず、頭にも血が十分巡っていないように感じていたが、それよりも佐崎達と同じペースで走れている自分が誇らしく、また荒藤に言われた言葉が、初めて自分が認められたように感じられて、体は動かなくとも気持ちがやけに高揚していた。だから、荒藤にしんどくないのかと聞かれて、口ではしんどいと言ったが、しんどくないように振る舞った。瞬発力を要する短距離に比べて、春也はもともと長距離だとかスタミナを必要とするものには、まだ自信があった。アメフトに必要とされるのは短距離を走る瞬発力だと分かっていても、やはり運動能力の高い同期の連中と同じ土俵に乗れたような気がして、春也は嬉しかった。

しかし、4本目の200mを越えたあたりで、佐崎と柳井がスピードを急にあげてきた。練習でもないので、佐崎と柳井は手を抜いていたとは言わぬが、これまで軽めに走っていたのかとそこで春也は気づいたが、だからといって、春也としても折角縮めたように思えた彼らとの差を簡単に再び広げたくなく、何とか食いついていこうと懸命に足を前に運んだ。周りの風景は線だけになり、やがてその線もぐらぐらと揺れた。呼吸が苦しく、自分の顔から血の気が引いていくのがよく分かる。ゴム製トラックの地面から上がる陽炎の熱気だけが強く感じられた。

ラスト5本目は最初から佐崎も柳井も飛ばしてきた。荒藤もスピードを上げている。春也はスピードを上げようとしても、体がまるで言うことをきかなかった。春也の目の前で、佐崎は大きな背中をきれいに伸ばし、何かの精密機械のようなきれいなフォームで加速していく。元陸上部の柳井としては、佐崎に負けたくはないのだろう、これも佐崎をすぐ後ろから追っていく。2人の背中は、春也からどんどん離れていくが、手足はバラバラに動き、頭はぼんやりとしてきて、ただ走っているだけで精いっぱいだった。荒藤と自分のどちらが先にゴールしたのかも不明瞭なほど、頭が真っ白になったところでようやく400mを走り切った。ゴールしてすぐに嘔吐感がこみ上げてきて、トラックに座りこんだ。息を吸っても吸っても酸素をうまく取り込めないような気がする。

「おいおい、走り終わってすぐに座るなよ。少し流せ。」

先にゴールしていた柳井が声を掛けてきたが、春也は立ち上がれないだけでなく、俯いた頭さえ上がらなかった。とにかく気持ちが悪く、自分の顔がまっ白になってしまったのではなかいと思うほど、血の気が引いている。

「お前、貧血起こしてるんじゃないか。顔が真っ青だぞ。日陰で休んでこいよ。」

何も答えない春也を訝って、柳井が春也の顔を覗き込みながら言った。そう言われてもなお、春也は立ち上がれなく、他の3人がゆっくりと離れていってからも、嘔吐感に苛まれていた。不足した酸素を取り込もうと息を吸うが、うまく酸素が補給されていかない気がする。焼けるような地面も気にせず仰向けになると、少しだけ気分が楽になった。

400mを徒歩のようなゆっくりとしたスピードで回ってきた3人がゴール地点に戻ってきたところで、ようやく春也は立ち上がることができて、無言で日陰のところまで移動し、そこでまた仰向けに寝転んだ。依然として頭はまだぼんやりとしており、嘔吐感は残っていたが、ようやく酸素が体に回り始めたのか、体が少し楽になった。たまに木陰に入ってくる風が気持ち良い。青空とそこに浮かぶ白い雲を見ながら、遠くで陸上部の連中が走る仲間を励ます声が聞こえる。何も考えずにしばらくそうしてゆっくり形を変える雲を眺めていたが、大分気持ちが楽になってきたので、春也は体を起こし座った。トラックを挟んだ大分離れた場所でストレッチをする荒藤、佐崎、柳井の3人の姿が小さく見えた。起き上がった春也に気が付いたのか、3人のうちの誰か1人が春也の方を指差しているが、ストレッチを中断してこちらに来る気配はなかった。春也の方でも、まだストレッチをする3人の方へ歩いて行く気持ちにはなれなかったので、そのまましばらくそこでぼうっとしていた。

大分気持ちが悪いのが収まってきたためか、周りの風景がようやく意味を持って頭に入ってくるようになった。リズム良くきれいなフォームで走る陸上部の男女が春也の目の前を何度も通り過ぎる。はじめは、自分の走るフォームの参考になるかと、まだ冴えきらぬ頭でぼんやりとそれを眺めているだけであったが、気付くと春也の視線はトラックを走る一人に釘付けになった。

引き締まった若い馬が走っていると、春也は初めそう感じた。赤い陸上競技用のタンクトップシャツとショートパンツから長い手足が伸び、足首が細く締まっている。長いストライドはスピードを保ち、足が接地するたび大腿四頭筋のきれいな直線が現れ、ポニーテールにした濃い茶色の髪が馬の尾のように揺れた。上背はそれほどないのに手足が長く頭が小さいためか、背が高く見える。背筋は伸び、膝が高く上がるフォームが終始崩れることなかったが、時折苦しそうな表情が見えた。

春也には彼女が一人きりで走っているように見えた。トラックを単独で走る陸上部員は多くいたが、なぜか彼女だけが孤独に見えた。他の陸上部員からの励ましの声も、タイムをカウントする声も、彼女の走りとはまるで無関係に見えた。一心不乱に走るその姿を、春也は自分が目指しているものはこういうものなのではないかという気持ちで見る。彼女はインターバルをおいて200mを何本も走り続けた。春也の休む木陰近くのコーナーを彼女が走り抜けると、トットットッという軽快な足音が聞こえるように思えたが、その音が本当に彼女の足音なのか、それとも自分の鼓動の音なのか、春也には判別がつかなかった。

「ばてた情けない顔して、女ばかり目で追ってるなよ。みっともない。」

荒藤の声がして振り返ると、いつの間にか3人が近くまで歩いて来ていた。

「いや、あそこの子の走るフォームがさ、何ていうか、すごくきれいなんだよ。」

春也は正直に言ったつもりだったが、

「うそつけ。お前はあの女のフォームじゃなくて、単にかわいいから見ていたんだ。お前は身の程をわきまえず面食いだからタチが悪い。」

荒藤は勝手に決めつけて言った。ここからでは彼女の顔などよく分からないし、身の程をわきまえぬ面食いだという発言も、春也にとっては心外だったが、たしかに彼女の走る姿がきれいだから見とれていたことには変わりはないし、体が疲れていてわざわざ反論する気力も残っていなかったので、そのままにしておいた。荒藤は隣で、春也が見とれていた女がどれであるか、指し示して佐崎と柳井に伝えている。もう一度彼女が春也達の目の前を走り過ぎると、

「ああ、あれ早紀ちゃんじゃん。」

と柳井が言う。

「なんだ、お前知り合いか。知り合いなら紹介してくれ。頼む。」

先ほどまで女などに見とれるなと言っていた荒藤が言う。

「知り合いというか、同じクラスの子だよ。たしかに早紀ちゃんはかわいいてクラスのみんなも言ってるな。ただ、なんというか、あまりみんなとそれほど仲良くしたがらないというか、俺も別に仲がいいというわけじゃない。まあ別に今度誘ってみてもいいけど。」

「そうか、まじで頼むぞ。やはり運動している子はいいからな。俺のことも分かってくれる。」

荒藤がそう言うのを聞きながら、春也は彼女が走る姿を目で追い、勝手に優しい彼女を想像し、たしかに彼女なら自分のことも温かく包み理解してくれるのではないかと考えていた。

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