【青春スポーツ小説】「この世に女はいないと思え」第8話 

スポーツ小説

浅野川大橋近くの銭湯へ着くと、洗い場から漏れる湯気のいい匂いが外まで来ていた。春也の下宿は風呂が共同で、下宿生が一人ずつ順番に入るため待ち時間が長かった。そのため、大抵練習後には、チームメイトと連れ立って馴染みの銭湯に通った。銭湯へ着く頃には、練習で張りつめていた緊張の糸もようやくほぐれる。銭湯へ来る度、部員達は脱衣所の大きな鏡で筋肉の付き具合をチェックした。春也は、自分の体も去年に比べると大分大きくなってきたと満足だった。他の客からすれば、春也達一行はあまり歓迎すべき入浴客ではなかったかもしれない。大体、男というものは、自分より強そうな、体格の勝る男が近くにいるのを好まない。ましてや、小さな銭湯の限られた空間で、何人かの、多い時には10名近くの体の大きな若い男達が我が物顔で洗い場に入ってくれば、折角のリラックスできる入浴時間も台無しというものだ。

ただ、それも春也にとっては、気分の良いものだった。たまに、若い男の入浴客が数人で来ているのと重なることがあるが、春也達が風呂に入ってくると自然と場所を開けた。髪の毛を染めピアス等を開けた今風の男達など、普段なら強がって対抗する視線や態度を取ってくるはずの男達でも、苦々しげにではあるものの、全く無抵抗に鳴りをひそめ、縮こまって隅の方で風呂に浸かっている。身に纏う服がないため、己の貧弱な体と春也の仲間の堂々たる体躯を否が応でも比較することとなり、戦わずともその優劣は明らかな格好だった。

そんな矮小な優越感に浸っているのは春也だけであり、当の荒藤達は、他の入浴客のことなどまるで無頓着に、大きな体を悠々と湯船に横たえている。いつもならそういう仲間達をただ好ましく眺めるだけであったが、その日は先ほど荒藤に言われた言葉を思いだし、ただ自分が情けなかった。他の入浴客に対して優越感を感じるのも、荒藤が言うところの自分のせこさ、嘘の生き方のためだと感じた。

その日も湯船に浸かっていた若い男達が端へ寄って場所を開けたことに気付かぬのか、荒藤と佐崎は足を目一杯伸ばして湯船に横たわると、

「あぁぁあ」

と気持ち良さそうに声を出した。練習でできた体中の擦り傷に湯がしみるが、疲れた体に熱い湯が何とも気持ち良い。オスとしての戦いを既に終えているためか、痩せこけた老人だけが、春也達3人が湯船に入ってきたのも気にせず目を瞑り、3人に体がくっつきそうな程近くで湯船にのんびり浸かっていた。しばらくして、その老人は春也達に気が付いたのか、無遠慮に3人をじろじろと眺めまわしたのち、

「兄ちゃん達は、学生か?」

と話しかけてきた。

荒藤と佐崎は話しかけられているのに気付かぬのか、気付かぬふりをしているのか、相変わらず目を瞑って湯船に浸かっているので、

「はい、学生です」

と春也一人が答えた。

「そうか、学生か。学生ならば学生で良い。」

老人は、一人納得したようにそんな言い方をして、

「君らは3人ともなかなか良い体をしている。軍隊なら甲種合格で入隊できるだろう。近頃の若い男は、貧弱でいかん。簡単に女の尻に敷かれている。」

この老人も若い頃は、今のように痩せこけた体ではなかったのだろうか。湯にあたっているのか、湯気の中の顔が赤い。

「男は男らしくなければならない。男女平等などと言って、男と女を何でも一緒にしたがる馬鹿がいるが、そんなことができるわけがない。男は男らしく、女は女らしく生きなければならない。何にでも、そのものの良さというものがある。男は男らしく、女は女らしく、犬は犬らしく、松は松らしく、雪は雪らしく、岩は岩らしく、夏は夏らしく、学生は学生らしく、風呂は風呂らしく…」

老人はそのフレーズを気に入ったのか、思いついたものに何でも「らしく」を付けて言い続けていた。強い者は強い者らしく、弱い者は弱い者らしく、弱気な者は弱気な者らしく、それぞれ分をわきまえて生きろということかと春也は思い、聞いていて気分が良くなかった。老人はまだ隣で何事か呟いていたが、春也は荒藤と佐崎を残して湯船を出て、水風呂に浸かりに行った。

風呂を出ると、風呂で火照った体に夜風が気持ち良かった。夜9時近かったが、オレンジ色の街灯にぼんやりと照らされる浅野川沿いの道を散歩する人達がちらほらいて、いかにも夏の宵という感じだった。浅野川の川面にラーメン屋の緑色に光る看板が映っている。先ほど定食屋でから揚げ定食などを食べたばかりだったので、春也の腹は全く減っていなかったが、

「ラーメン行くか。まだ腹はあまり減っていないが、練習で疲れている時はたくさん食った方がいい。栄養を吸収して疲労を回復させる。」

と荒藤が言う。

「さっき食ったばかりだし、おれ、大盛りを食いきれるかちょっと自信ないな。」

春也が答えると、佐崎が隣で頷いた。そのラーメン屋には、多くの部員が通っており、店の大将も部員たちの顔を覚え、普通盛りのラーメンを注文してもサービスで超大盛りを食わせてくれる。

「情けない奴らだな。これぐらいの飯を食えないようでは試合にも勝てない。いや、試合に出られさえしない。」

「わかったよ。食うよ。うまいし、食い出せば食えないこともない。」

佐崎がそう応えたので、春也も食わないわけにはいかなかった。店に入り注文すると、当然これが一食目だと思っているラーメン屋の大将は、いつものように超大盛りのラーメンを出してくれた。腹が減っていなくとも、はじめの内はおいしく食べられていたが、食っても食っても一向に減らない麺が、段々とゴムのように思えてくる。加えて、チャーシュー麺でもないのに、大量に入れられた肉厚で脂ののった肉片が、春也の腹に追い打ちをかけた。店内とラーメンの熱気で、先ほど風呂で洗い流したばかりの体に、再び玉のような汗が浮かんだ。

「全く贅沢だな。世界には飢えている人達がたくさんいるというのに、俺たちはこうして無理して食っている。」

春也がティッシュで汗を拭きながら言うと、

「俺は無理などしていない。体が食えと言うから食っているだけだ。今だってうまいと思って食べている。やはりここのラーメンはうまい。この味の出し方を俺が学べば、店を全国展開させることもできるのに、惜しいな。それにしても、お前の食べ方は、世界の飢えている人達にも、このラーメンに対しても失礼だ。たとえ腹が減っていなくても、おいしく食べろ。」

勝手なことを言いやあがると思い、春也は佐崎に同意を求めようと隣の佐崎を見ると、無表情にただ黙々とラーメンをすすりあげていた。佐崎の顔も湯気やら汗で顔が光っている。

「たしかにおいしく食べないと失礼だな。だが、俺は腹がいっぱいだ。飯を毎日5食も6食も食べれば、いくら激しい運動をしていても、お前のようには毎回腹を空かせて食うとはいかない。おれは午後3時頃、昼飯を数時間前に食ったばかりで腹も減っていないのに、学食で一人また飯を掻き込んでいると、なんで俺はこんなことをしているのだろうと思えてくることがある。」

春也は箸ですくった麺を宙に止めたまま言った。

「まあ、学食でそういう気持ちになることは分からんでもないな。俺の場合は、飯を何度も食うことにではなくて、周りの奴等に対してだけどな。その時間帯に学食にいると、ちゃらちゃらした男と女が徒党を組んで、イチャついていやがるだろ。それだけならまだしも、俺一人で飯を食っていると、俺が変な奴でもあるかのように、ちらちらとこちらを見てきやあがる。なんだか腹が立ってくるし、恥ずかしいという気持ちまで浮かんでくる。なんでおれがこんなもやもやとした気持ちにならねばならないんだと思えてくる。」

珍しく春也の意見にケチをつけることなく、麺を口いっぱいに頬張りながら荒藤が言う。

たしかにその風体で荒藤がひとり飯を掻き込んでいたら周りの者が見るのも無理はないと春也は思う。

「お前は悔しいんだよ。大学生になったら、自分にもそういう奴等みたいな生活があるはずだと思っていたんだろ。なのに俺は一体何をしているんだってな。」

佐崎がラーメン鉢から顔をあげ、笑いながら言った。

「女を求めるなんて余裕があるんだな、お前は。おれはそんな次元まで行ってない。そんなことより自分が先だよ。食事だけじゃなくて、練習していても、トレーニングしていても、俺は何でこんなことをしているんだろうと思えてくることはある。俺は、お前らと違って、楽しくて部活やっているわけじゃないからな。」

春也が言うと、

「まあ俺だって楽しいだけでやってるわけじゃないが、練習がきつくても楽しさはあるだろう。じゃあ、なんでやってる。」

佐崎が真面目な顔で春也に聞いた。荒藤は怒ったような顔をして隣で黙っている。

「俺は将来の土台作りだと思ってやっている。俺は勉強はやらなくてもある程度できる。だが、運動が苦手だ。このまま負けたままじゃ悔しいんだ。苦手なものに取り組んで、今はこれからの長い人生のベース作りだ。ものの本には得意なことをやって長所を伸ばせとか、学生のうちから起業しろ、早くスタートした者の勝ちだとか等と書いてあるが、遠回りに見えて、俺はこっちの方が良いと思っている。女や金なんて後からついてくる。今、苦手なものを避けているようでは、これからもずっと逃げて回ることになる。お前ら、今日銭湯の壁に新しく描かれていた絵をみたか。タオルを頭に乗せて『あぁ、ようやく俺も人生の楽しみ方が分かってきたなぁ』と言って風呂に入っている中年男の絵だ。あれを見て俺はぞっとしたね。あれは『あぁ、ようやく俺も人生の諦め方が分かってきたなぁ』の間違いだろ。俺はあんな生き方がしたくないんだ。俺は激しく生きたいんだ。」

珍しく自分の出した話題が膨らみ、荒藤が自分に同調してきたことが嬉しくて、春也は饒舌になっていた。

「黙れ能書きチビ。サッカー部と嘘をついていた奴がかっこつけて言うことじゃない。お前は自分に酔っているだけだ。やることに意味を求めれば自己陶酔になる。だから何も言わずやらねばならない。一切ものは考えるなだ。弱い奴は弱い奴らしくさっさと食え。ラーメンはラーメンらしく、スープはスープらしく、チャーシューはチャーシューらしく、メンマはメンマらしく食わねばならない。」

荒藤は前半を真面目な顔で、後半を笑顔で言った。

「なんだ、お前も風呂であれ聞いてたのか。」

佐崎が笑いながら答えたが、春也には返す言葉がなく、黙って下を向き、伸びてさきほどより量がさらに増えたように見える麺を何度もすすりあげた。

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