【青春スポーツ小説】「この世に女はいないと思え」第5話 

スポーツ小説

( 三 )

いつもの階段を、これから練習が始まる緊張、不安、常に抜けない疲労を引きずりながら登る。眩しく光る太陽と青空に、もくもくと白い入道雲が浮かぶ。濃紺の山々の隙間にグラウンドが顔を出すと、すでに多くの選手が軽く走ったり、キャッチボールなどをしてウォームアップをしていた。一年以上、毎日のように見てきた光景だったが、毎回それを見るたび、ドキリと自分の心臓が鳴るのが分かる。練習でふっとばされる自分、ヒットの瞬間の衝撃、ボールを捕球しそこなった後の部員からの罵声、その全ての光景が一瞬の内に思い出され心臓をドキリと打たせるのだった。

大きな掛け声と共に練習が始まると、徐々に疲労を忘れていった。夏の熱い空気を春也は走って切ると、体に丸く浮かんだ汗がグランドに落ちた。強い日差しにじりじりと焼かれ乾燥したグランドは、落ちる汗を瞬く間に吸収する。

――速く、速く、皆のように速く。――

毎日毎日、何本も何本も走るその度、気持ちばかり急くが体がやたらと重い。地面につま先をつける度、ふくらはぎと骨の間に鈍重な痛みが走った。サウナ室のように暑いグラウンドで頭がぼんやりとしてくる。

素早く足を動かそうとすればするほど、その遅さをはっきりと自覚することになった。膝は全く高く上がらず、着地の度に走りにブレーキをかけた。上半身は無様に反り上がり、体の割に大きな頭が重そうに体の後からついてくる。練習を録画したビデオを毎晩ミーティングで見ることで、春也はその無様な己の姿態を嫌と言うほど自覚した。

己の醜態は、走る姿だけではなかった。味方からのパスを捕球しそこねて慌てふためく姿も情けなかったし、相手に向かってヒットしていく姿も、子供相手に手加減する大人に向かっていくようで目を覆いたくなった。パスを捕球し損ねなくても、捕球動作はどこかに自信のなさや緊張が見えて、ぎこちなかったし、ボールを持てば簡単にタックルされて倒されていた。体の疲れや痛みもさることながら、練習で最も辛いのはそういう無様な自分に向き合わねばならぬことであった。

どの練習メニューでも春也は緊張したが、一番精神的な苦痛を伴うのはオフェンスとディフェンスの1対1の練習だった。その練習は春也だけでなく、皆が緊張を持って臨むメニューだった。というのは、個人の勝敗が如実に分かるプライドがかかる練習だからであった。5~7m四方の正方形を中に挟んで、ボールを持った選手とそれをタックルで倒そうとする選手が向かい合う。その周りを順番を待つオフェンス、ディフェンスの多くの選手がぐるりと囲み、一つの勝敗が決するごとに大きな歓声や怒号が上がる。オフェンス側が勝てば、もちろんオフェンス側の選手たちから歓声があがり、ディフェンスが勝てばその逆だった。負けた選手には、

「なにやってんだ、てめえは。」

「やる気あんのか。」

等という言葉が周囲から一斉に怒鳴られた。

オフェンスの選手は、タックルを避けても、相手のタックルを受けても、とにかく相手の後ろのラインまで進めば良かったが、春也にとってはそれはひどく難しい作業だった。相手のディフェンスメンバーには、体がでかいのが揃っており、そのタックルを弾き飛ばして後方ラインに進むことは、チームの中でもほとんど一番体が小さい春也にとってほとんど不可能に感じた。かと言って、春也はスピードや俊敏性も持ち合わせていなかったので、同じポジションの佐崎が時々そうするように、フェイントやスピードを使って、タックルを全く受けずに相手を抜き去ることも難しかった。

その日の練習に、1対1の練習メニューがあることを練習前に聞いて、春也はいつもと同じように鼓動を速くした。準備体操の時から1対1のことで頭がいっぱいになり、1本目はどういうフェイントをかけようか、右に抜こうか左に抜こうか、そんなことを考えてみるものの、タックルの衝撃と倒される自分が脳裏によぎるだけで、緊張のせいかうだるような夏の日差しのせいか頭がくらくらした。

1対1の練習の前に、ランやヒットの練習をいくつかする内に、ポジション内のメンバーが集中していくのが分かる。皆がそれぞれのやり方で1対1の練習に備えている。1対1の練習が始まる前に、ポジション皆で円陣を作り、その真ん中でポジションのリーダーである4年の杉田が、

「お前ら、いいか。絶対ディフェンスに負けんなよ。いくぞ。」

と掛け声をかけると、

「おおう」

と一斉に皆が応え、散らばった。ディフェンス側を見ると、大勢の選手たちが仁王立ちでこちらを睨みつけていた。チームメイトであるディフェンスの選手たちがいつもより一回りも二回りも大きくなったように見えた。

まず一人目、オフェンス側は4年のポジションリーダー杉田、ディフェンス側もポジションのリーダーである南野が向かい合った。張りつめた時間が一瞬そこに流れたが、笛の合図で2人の男達は、猛り狂う闘牛のように、1点に向けて突っ込んでいった。次の瞬間、金属がぶつかり合うような衝撃音が響き、勝敗は一瞬で決まった。南野の下で杉田は倒れていた。南野は勝利の雄叫びを上げ、それに続いてディフェンスの選手の方から怒号のような歓声が上がった。

ポジションリーダーの敗北によって、オフェンス側の意気がにわかに下がったように見えたが、次のオフェンス選手である4年の吉倉が相手のタックルを弾き飛ばすようにして勝利すると今後はオフェンス側に怒鳴り声のような歓声が上がった。相手のタックルを弾き飛ばした当の吉倉は、それが当然というような落ち着いた冷ややかな目つきをしている。188cmの身長の上に大きな筋肉を纏うこの男は、チームのエースであった。体が大きいだけでなく、スピードも俊敏性も併せ持っており、おそらく先ほどのディフェンス選手相手でも、タックルを受けずにスピードやフェイントを使ってかわすこともできたであろうが、始めの杉田の敗北を見て、あえてタックルを弾き飛ばして勝ち、オフェンス側の士気をあげようとしたのかもしれなかった。そういうことができる程、この吉倉という選手は、並み居る韋駄天や金剛力士の中でも別格だった。

4年、3年の選手がぶつかりあり、春也達2年の順まで回ってきた。周囲の怒鳴り声はどんどん大きくなり、体中にグラウンドの土を付けた者が増えた。次期エースの一人と目される佐崎は、相手の目前で急停止し、ほとんど直角に横に飛んで相手を抜いた。相手に体を触らせない鋭い走りだった。ディフェンスの荒藤は、チームでも1、2の俊足を持って知られる同じく2年の男と当たった。タックルにいった荒藤は一瞬相手に抜かれたのように見えたが、荒藤はその長い手を伸ばし、片腕一本でその男を絡み取り、なぎ倒した。まるで伸びたかのように見える腕にも、片腕一本で相手をなぎ倒したことにも一瞬周囲からどよめきのような声が起きた。その俊足の男は心底悔しそうな表情で、

「あぁぁああ」

と叫んだが、荒藤は声も出さなければ、表情も変えなかった。普段はおどけて大声をだす荒藤であったが、試合中や練習中はほとんど感情を外に出さなかった。それがかえって、荒藤の強さを不気味に際立たせていた。

いよいよ自分の順番が回ってくる段になって、春也は緊張が最大まで高まっているのを感じていた。どっどっどっどっと鳴る自分の鼓動が聞こえ、手には冷や汗が出た。真夏の太陽が頭上に輝き、蜃気楼のように周囲の空気がゆらゆらと揺れている。その揺れる空気が地面からの陽炎なのか、選手から出る湯気なのか、はたまた自分のめまいなのか、緊張した春也の頭では判別が付かなかった。スタートラインに立つと、呼吸が速くなり、周囲の音がまるで聞こえなくなる。向い合うディフェンスの相手は同じ2年で、部内では小柄な方の男だった。目が合い、相手も緊張しているのが伝わってくる。

――小動物対決――

先輩や体の大きな同期の連中から、春也も相手のディフェンスの男も「小動物」とからかわれたのを思いだし、そういう言葉が頭によぎった。笛が鳴り、必死の小動物がもがくように動きだす。タックルを受けたら綿くずのように軽々と飛ばされてしまいそうに自分の体を薄っぺらく感じるのに、足だけは重りでもつけているかのように動かない。無意識の内に、フェイントにならぬフェイントをかけ、気付いたら相手にぶつかっていた。2匹の小動物は鈍い音を立てて、もつれ合うようにその場に崩れ、春也は負けた。

興奮する選手に合わせて勝負の回転が速くなる。次々に選手が走り衝突しては合図の笛がグラウンドに響いた。1対1に参加するオフェンスとディフェンス選手の人数が異なるので、次に自分の番が回ってくる時には、必然的に別の選手とぶつかることになる。10分~15分くらい続く練習なので、各々の順番は5~6回ほど回ってきた。春也は1回目の勝負に負けてから、少し冷静さを取り戻したが、それで何が変わるわけでもなかった。2,3本目は、最初に佐崎が見せたようなフェイントを真似てみたが、自分でものろのろとした角度の浅いステップになったのが分かる。フェイントには全くならずに、3年の先輩のタックルをもろに受け、首が音を立てて曲がり地面に倒れた時には足が妙な方向に曲がっていた。4本目には、小細工を止めて無いスピードで相手の4年生を抜こうとしたが、スピードを出そうと上体を起こしたところで、相手の矢のようなタックルが春也の懐深くを串刺しにするように入り込み、春也の体はくの字に曲がり、後ろ側に飛んで、スタートライン近くで仰向けに倒された。仰向けに倒されるのはもっとも惨めな、恥ずべきやられ方とされており、その時ばかりは周囲の励ます声は一切なく、オフェンスからもディフェンスからも春也に向かって罵声が飛んだ。

「おいおいおいおい、なんだよそれは」

「やる気ないなら帰れ」

春也は腹にタックルが入りむせ返る中、罵声だけでなく、周囲から失笑までもが聞こえた気がした。体は土まみれになって、口の中にじゃりが入っている。どうにか気持ちを持ち直し、5本目に臨んだが、4本目の串刺しタックルを思いだし、懐に入られまいと上体を低くし頭を低くし過ぎたのがいけなかった。強いタックルを受けたわけでもないのに、自らの体重を支えられずに、ただ地面に向かって自滅する形で頭から突っ込み倒れ込んだ。さらに悪いことに、その際、相手にボールを掻き出され、春也の腕からボールが零れ落ち、それを相手に抑えられてしまった。もっともやってはならぬミスだった。しかも相手は一年であった。

「お前、ふざけんなよ・・」

諦めのような言葉が聞こえるだけで、もう罵声すら聞こえなかった。顔中の汗に土が付着して泥になっている。起き上がって、茫然とした気持ちで目の前で続くぶつかり合いを見ていた。恥ずかしくて穴があったら入りたいとはこのことだと思う。顔に着く汗と泥を拭くふりをして、別のものを拭いた。

「ラスト一周!」

と声がかかる。その最後の一巡を半ば闘志を失った状態で春也は待った。ディフェンスに南野が出ると、1本目のリベンジを果たすつもりか、

「おれが行く」

と順番を変えてポジションリーダーの杉田が前に出た。杉田は南野のタックルを1本目と同じように大きな衝撃音とともに受けたが、今度は倒れなかった。タックルが杉田の懐に入ることはなく、そのままタックルを外して、走り切った。南野が1本目でしたように、今度は杉田が吠えた。

荒藤の最後の相手はチームのエース吉倉だった。吉倉と荒藤では体格こそ互角に近かったが、吉倉の運動能力はずば抜けており、さすがの荒藤でも止められないだろうと思えた。実際、以前に1対1をやった時は、荒藤のタックルは吉倉にはじき返され、またはタックルすることさえできずに荒藤はかわされていた。しかし、今回の荒藤は違った。2人がぶつかった後、タックルを外され一度は抜かれたように見えたが、荒藤は吉倉の足を掴んでいた。吉倉の足首にしがみついて、倒したのだった。吉倉にゴールラインを割られていたので、負けは負けではあったが、吉倉を倒したことには変わりなかった。

春也の順番が回ってきたところで、終了の笛がなった。ラスト一周がまだ終わっていなかったが、4年の先輩達は終了の合図を出した。自分にまで順番が回ってこなかったことで、安堵する気持ちと、全て負けっぱなしで終わってしまった悔しさが混在していたが、安堵の方が強かった。

その日、それ以降の練習は、ほとんど集中できずに終わった。誰も俺を見ないでくれ。話しかけないでくれ。俺の存在を忘れてくれと春也は念じ続けていた。練習中はまだ良かったが、その日の練習を録画したビデオを同じポジションの皆でチェックするミーティングがさらに苦痛だった。改善点を皆で指摘し合うために、何度も巻き戻しては再生する。何度も何度も地面にへばりつく自分の姿を春也は直視できなかった。周囲の声もほとんど耳に入らなかった。

ミーティングが終わって佐崎と荒藤にめしに行こうと誘われたが、

「今日はいいわ。帰る。」

とだけ言ってそそくさと部室を出た。後ろから、

「いつまでもうじうじしてんなよ。だからしょぼいんだよ」

と言う荒藤の声が聞こえたが、聞こえないふりをして歩いて行った。お前らに俺の気持ちは分からんだろう。春也はそう思いながら、先ほどビデオで見た、4年の先輩にも善戦していた荒藤や佐崎のプレーを思い出していた。あいつらはどんどん上手く、強くなっていくのに、自分だけがいつまでも変わらない。1年以上、自分なりに必死にやってきたつもりだったが、差が縮まるどころか開く一方に思えた。

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