【青春スポーツ小説】「この世に女はいないと思え」第4話 

スポーツ小説

入部を決めた日の気持ちの高揚は、毎日の練習ですぐに萎むことになった。見かけだけの強がりは運動の世界では通用せず、連日自分の弱さや身体能力の低さを思い知らされることとなった。春也のメッキは入部してすぐの50mタイム測定で惨めに剥がれた。

「今日は50mのタイムを測る。お前ら本気で走れよ。」

と新入生の教育担当のような立場になっていた南野に声を掛けられると、春也はにわかに緊張した。それまで他の新入生と言葉を交わしていた春也の顔からさっと笑顔が消え、不自然な顔のこわばりがそれに代った。

「自分、足速そうやなあ おれはあかんわ。サッカーやってたんやろ、見た目も速そうやし」

隣のいかにも力の強そうな、ずんぐりむっくりした体型の新入生が春也に向かって言う。

「いや・・おれは・・」

春也は言葉に詰まって応えながら、部員で溢れかえる更衣室の外で、高校時代の体操服に着替えた。ずっと運動部に所属していた者たちが持つジャージなどを春也は持たなかったので、エンジ色の高校指定体操服のズボンを途中で切ってショートパンツにしたものを穿いていた。

春の暖かさが残る夕刻の土のグランドの、先輩達が練習する横で新入生のタイム測定が始まると、汗をびっしりとかいたごつごつした先輩たちが練習を中断してタイム測定の周りに集まってきた。

――これは緊張する。――

と心中思う春也をよそに他の新入生たちは割とリラックスした様子で、屈伸などして準備していた。20人以上いる新入生達のうち、半数以上の者の体はやけに大きく、とても速く走れるものとは思えなかったが、それほど足の速さを要求されないポジションがあるので、大きな体の新入生達はあまりこのタイム測定にも緊張を感じないのかもしれぬと春也は思う。順にタイム測定が始まると、周りから先輩らの歓声やら笑い声やらが聞こえ、先輩達にとっては面白い見世物の体をなしている。走り終わった大柄な1年が、

「ああ、あかんわあ 受験で遅なってる ははは」

と大して駄目だとは思っていなように笑っている声が遠くから聞こえた。一方、いかにも足の速そうな2人組が、予想を裏切らぬその俊足を披露して競い合うと、周囲の先輩達が歓声を挙げ、良い1年が入った等と話す声が聞こえた。豹のように鋭い顔の男は、先輩らの歓声にも関わらず、己のタイムに少しも満足していなさそうに首をかしげている。

そういう光景を見るうち、春也の鼓動はどんどん速くなり、軽い吐き気まで感じてきた。自分はなぜこんなタイム測定などに緊張しているんだ、こんなもの何でもないと言い聞かせても効果はなかった。じきに春也の番が回ってくるところで、近くにいた荒藤が寄ってきて、

「おい、頼むぞ。速いんだろな。さっきのに負けんなよ」

とだけ言って戻っていった。その言葉を聞いた後、少しでも早く走ろうと、春也は自分の底がつるつるになったスニーカーを脱いで裸足になった。裸足で走る者は一人もいなかったせいか、周囲の視線を感じた。春也と一緒に走ることになった男を見ると、少しの緊張も感じていない様子で、長身のその体を軽くジャンプさせていた。男は春也の視線に気付いていないとは思えないが、それでもあえて、春也の方を見ない。なんとなく近寄りがたい雰囲気の男だった。

自身の速い鼓動を感じながらスタートラインに立ち、ぐっと身構える。スタートの笛と共に、足を掻いて前に出た。大きな頭がすぐに後ろに引っ張られ、春也の背筋と腹筋では上半身を支えきれず、胸が反り返った。足だけが無暗に前に進もうとするも、一歩一歩つま先が地面に着く度に、ブレーキがかかっているような気がした。周囲の光景は何も見えず、左右から聞こえる笑い声が嘲笑に聞こえた。隣を気にすると、長身の男はるか前方に、背筋をきれいに伸ばして加速して行き、ぐんぐん春也から離れていくのが見えた。

ゴールすると、そこでストップウォッチを構えていた南野が笑いながら言った。

「おいおい、嘘やろ。本気で走ってないやんな。遅すぎや。ははは」

周囲で見ていた同級生や先輩は何も言ってこないが、それが遅い自分への憐みのように見えて、南野の言葉よりも辛かった。ちらと荒藤を見ると、一瞬目が合ったが、すぐにその視線は外れた。皮の剥けた足の裏にグランドの砂利が刺さり痛みを感じた。一緒に走った男が隣に涼しい顔で立っていて、その男を春也が見上げると目が合って、

「佐崎って言うんだ。よろしく。」

隣の男は先ほど感じた印象とは変わって、優しそうな笑顔で言った。勝負に負けた悔しさで、返す自己紹介もままならず、どこを見てよいか分からぬ視界の隅で、グラウンド横に咲いている桜が風で散るのが見えた。

春也の惨めな走りは、それから毎日周囲の目にさらされた。走りだけでなく、全ての練習で、佐崎は醜態をさらしていたと自分で感じていた。弾丸のようにスパイラル回転をして向かってくるボールにびびっては目を閉じ、何度も捕球しそこねた。ヒットの練習では、相手にぶつかるとすぐに両足が地面から浮いた。タックルを受けると、佐崎の体は藁人形のように軽く地面に叩きつけられた。

自分は弱い、運動能力が低くて駄目だと思って、早くも練習へ行くことが辛くなった。それでも何とか続けていたのは、ここで辞めてはこの先ずっと自分は弱い駄目人間だと思って生きていくことになりそうで、それは避けたいという気持ちがあったからだった。春也は部活中の強がりを捨て、弱いものは弱いものらしく振舞った。練習中も視線を落とすことが多くなって無口になった。自分は弱い、しょぼい、その言葉ばかりが頭を回った。その一方で、昼間に大学構内を歩く時は、部活の憂さを晴らすかのように、頭でっかちのチビが肩をいからせて強がった。

――俺は強い運動部に所属している男だ。お前らのようにちゃらちゃらサークル活動にいそしんでいる奴らとは違う。――

と誰も見てはいぬ自分を過剰に意識して大学構内を意味もなく徘徊した。構内で知らぬ男と擦れ違う度、貧弱そうな相手であれば睨みつけた。強そうな男やチャラ男の集団と出くわせば、強い男に見えるよう精一杯目つきを鋭くし、相手が自分を見ることに備えた。春也を意識して見る男などほとんどいないし、見れば弱い男の強がりとすぐに気が付くのに、春也自身はそれに全く気が付かずに、無様な強がりを繰り返していた。

そんな自意識過剰の春也に気付いてか、同じ学部学科の友人はほとんどできなかった。春也は相手が自分を気色悪がって近づいてこないだけなのに、それに気付かず、強い男は孤独も意に介さぬ等と自ら選択した友人無の状況だとロンリーウルフを気取っていたから世話がない。一方、大学構内で部員に会うと、大げさな笑顔を作り尻尾を振って近づき話しかけた。毎日練習で顔を合わせるから自然と仲良くなっていった部員ではあるが、春也はいつも彼らを褒める言葉を無意識に探していたし、練習で醜態をさらすたび一層卑屈になって、醜態も醜態と感じていないふりをし、部員の前で自らを卑下しておどけてみせた。

練習後、痛みと疲労でぼろぼろになった体と、それよりひどい自己嫌悪を抱えて、長い階段を一人で降りる。入部した当初は、荒藤と一緒に帰宅することが多かったが、いつしか一人この階段を降りることが多くなった。春也はオフェンスで荒藤はディフェンスのポジションだから、練習後のミーティングが終わる時間も違うし、一緒に帰宅しないことは自然のことであったが、春也と同じポジションである佐崎と荒藤が一緒に帰ることも多いので、それはやはりポジションの違いだけが理由ではないと感じていた。階段を一段降りるごとに、足腰に痛みが走る。しかし、とにかく今日の練習はひとまず乗り切ったという安堵と一人きりになった開放感が、練習前よりも幾分春也の心を軽くしていた。長い階段の途中で立ち止まって顔を上げると、金沢の街がぼんやりと遠くに光っていた。

コメント