みんな死ぬことを考えると生き方が変わる。一皮剥けたい。

生き方

俺の皮が剥けたのは、いや正確には自分で剥いたのは大学生の頃だった。いや、その皮の話ではない。人間としての、比喩としての皮の話だ。死のことを考えると、なんだかもう少しで、自分の人生の過ごし方を一変させるような考えにたどり着けそうなんだ。死についての考えはlife changing thoughtだと思うんだ。気取ってるわけじゃない。

ここ数年、死のことを考えることが多かった。そして、最近はもっと頻繁に考えている。死にたいという意味じゃない。俺は生きたい。まだまだ死にたくもない。死について、思いを馳せるという意味だ。

よく言われるように、幼少期、思春期、青春期は死が遠いものだった。自分がやがて死ぬこと、すぐ死ぬかもしれないことを頭では理解していても実感を伴わなかった。今でもまだ本当には実感が伴わない。ちなみに、堀江貴文氏は幼少期に死のことが頭から離れなかったという。

数年前に仲の良かった友人が突然死んだ。俺はといえば、オナニーのために薬やカフェインを摂りすぎて死ぬかもしれないと思った。それで救急車で運ばれた(皆さんの税金をそんなことに使わせてしまって大変申し訳なく思っている。もうしない)。**救急車搬送あたりのオナニーエピソード詳細は自伝的オナ禁小説のこのあたりのエピソードをご参照ください。

それから死のことを自分ごととして、頻繁に考えるようになった。

俺も含めて、どいつもこいつもみんな死ぬ。平日真面目な顔して働いている職場の人たちも、死ぬ。街で擦れ違う今後一生会うこともない人も、死ぬ。80年くらい経ったら駅にいる大勢の連中、総入れ替えだ。家族も友人も、死んで別れる時がくる。そして永遠に話すことがない、会うことがない、意識が交わることがない(かもしれない)。永遠にだ。

そんな死ぬ俺は一体なんで、毎日いやだと思いながら仕事に時間を拘束され、生きたい生き方をしていないんだ。仕事を辞めてリスクをとるのが怖いから?不安定な生活になるから?リスクってなんだ?いずれ死ぬんだぜ。寿命長くあと何十年か生きるとしたってあっという間だ。不安定でボロボロになったところで、安定の生活したところで、たいして変わらんし、たいていのことは何とかなる。ボロボロにもならんかもしれん。だったら、なんでもやもやを抱えながら仕事に行くんだ、人と接するんだ、生きるんだ。

後悔しない生き方してる奴は、1ヶ月後に死ぬとしても、今日の過ごし方が死ぬことを知る前と変わらんという。死を、無意識にせよ、意識的せよ、生き方に反映できているんじゃないか。1年後、半年後、3日後に死ぬとしたら、今オナニーするか?仕事に行くか?誰と話すか?どこに住むか?何を食べるか?

いや、だけど俺が一皮剥けそうて感覚は上述したような陳腐な感じじゃないんだ。うまく言葉でいえない。

ほんとに知ってるか?みんな死ぬんだぜ。わかってるようで俺たちは全然わかってないから。

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