【警察小説・Kiss the Rain】第9話 秋①

警察官小説(事件が起こる話ではない)

《 秋 》

島田は自分の気持ちを彼女に伝えた。10月の静かな夜だった。図書館の前の、街灯がほのかに照らす、背の低い緑に囲まれた細い小道で、島田は彼女と向い合う。

焦るつもりはなかった。彼女と会って半年が経ち、島田は彼女の友人となっていた。休みの日には、島田は教会の親しいメンバー達に誘われて食事に出かけることもままあったことは既に述べたが、その際島田を誘うのはもっぱら彼女であった。島田をはじめ教会に誘ったのも彼女であったし、彼女が島田を誘うのは自然なことに思われた。島田は教会の面々に親しみを感じてはいたが、リラックスしては付き合えなかった。やはり自分はクリスチャンにはなれていないと感じていたし、幼少時からの付き合いが多いメンバーの中に島田は入っていけぬものを感じていた。彼女を除いて、彼らも島田に対して遠慮があったように思う。

それでも、誘われれば食事、映画、買い物等に出掛けていくことが多かったし、男女混合の付き合いは楽しくもあった。警察の同僚に誘われても出ていかぬことが多い島田が、なぜ彼らに誘われるとのこのこ出かけて行くのか島田は自分でも不思議だった。

大抵集まるのは6人前後で、時々によって参加する者の顔ぶれは多少変わったが、どれも土曜の夜の教会に顔を出している良く見知った者たちだった。社会人と学生が半々くらいで、若い男女の集まりであるから、自然と色恋沙汰に発展することも多いのかと当初は思っていたが、幼少時からの付き合いであることも手伝ってか、どうもその様子はないようで、それも島田には好ましく思えた。

そのように大勢で集まることが多かったが、島田は彼女と二人で行動することもあった。休みの日には彼女に誘われて食事に行ったり、近くのコーヒーショップなどで話をしたりした。教会メンバーの噂話や仕事の話など、取り留めのない笑い話が主だったが、信仰の話や、生き方の話など真面目な話題でも話し込むこともある。彼女と島田の考え方や価値観は異なるものが多かったが、肝心な部分では一致する部分が多いと島田は感じていた。島田は彼女と話をするのが楽しかったし、話をする彼女の表情や口が動くのを見るのが好きだった。彼女が笑うと決まって白い歯が眩しく見えた。

話が尽きれば、他のメンバーと合流することもあったが、多摩川の河川敷を歩いたり、誰もいない昼間の教会へ行って、彼女の演奏を島田一人で聴いたりしたこともあった。彼女はドラムの他にも、ピアノやヴァイオリン、ギターが弾けた。彼女だけでなく、教会に小さい頃から通うメンバーは色々な楽器ができることが多かった。

教会の2階で、彼女のお気に入りだというピアノ曲を彼女の演奏で聴いたことがあった。島田と彼女だけの教会の部屋は、普段と別の場所のように思える。彼女の細く長い指が鍵盤の上で流れるように踊り、午後3時の初秋の日差しに、濃い茶色の髪と目を照らされて、その横顔が神聖なものに見える。曲を弾き終えた彼女は島田に向き直り、

「この曲覚えてる? 夏に、若い警察官のために祈った時の曲だよ」と言って白い歯を見せ、囁くように笑った。

島田を動かしたのは、彼女との会話だった。教会に行く前に二人で会って話していた時、彼女が付き合っている男の話を島田にした。島田は彼女が誰かと交際していることは全く知らなかった。彼女からそういう素振りを感じたことはなかったし、そういう噂も聞いたことがなかった。島田がそのことについて考えぬことはなかったが、そういうことを詮索することは、彼女に対してだけでなく、教会内のメンバーについて一切やめようと島田は思っていた。しかし、自然とそういう話は耳に入ってくるものである。半年が過ぎて、彼女に対するその手の話を聞かぬということは、つまり交際相手はいないということだろうと島田は勝手に合点していた。加えて、もし男がいるならば、自分のような別の男と、ただの食事とは言え二人きりで何度も会ったりはせぬだろうとも島田は考えてもいた。

正直、島田は、彼女から聞いた言葉や、自分への行動のいくつかを、自分への特別な好意の発露かもしれぬとささやかな期待と自惚れを以て捉えていた。もちろんそんな自分の浅はかさを否定しないことはなかったが、初対面で教会へ誘われたこと、右大腿に置かれた手のぬくもり、彼女のお気に入りのピアノ曲、その他諸々の全てを単なる友人に対する好意と受け止められるほど、島田は否定的な男ではなかった。

だが、彼女が島田を誘惑しようとか、からかっているとか、何か島田をして勘違いをさせる行動を彼女が意図的に取ってきたとはどうしても思えぬ。とすれば、やはりそれは単なる自分のああ勘違い、単なる友人への好意の表れに過ぎない。男友達と単なる食事に行く等よくよく考えれば至って当然のことである。自分は気持ちの悪い勘違い野郎だと島田は自分を責めた。

彼女は、その男と3年半付き合っていること、結婚してほしいと大分前から言われていて考えていることなどを、特に重大な話という風でもなく、単なる世間話のように微笑みながら話していた。島田が冷静を装って、「全然知らなかったな」と固い笑顔を作って言うと、

「そうなんだ。教会の誰かから聞いて知ってるかと思ってた。」と言って笑って、次の話題に移っていった。

彼女に男がいる。そのことで島田は大いに動揺した。このまま潔く引き下がろうかとも思ったが、それはできなかったし、したくなかった。島田は幾日か考え、彼女に自分の気持ちを伝えることにした。

ここで何もしなければ、彼女はその男と結婚を決めるかもしれない。もしかすると、自分にそれを止めてほしいのではないか。大分前に結婚話を持ちかけられて未だ承諾していないのも迷いがある証拠だ。駄目で元々、やるしかない等と一人思い、そう考えだすと、最早居ても立ってもおられぬほどざわざわと気持ちが騒ぐのであった。

島田は手紙を書くことにした。自分の思いを彼女に口頭でうまく説明できるとは全く思えぬ。島田は自分の気持ちを込めた手紙を、何日間もかけて頭の中で練り、彼女と会う約束を取り付け、約束の日の前々日に下書きをし、前日にそれを何度も読み返しては、ほとんど徹夜でその手紙を丁寧に書き上げた。

その手紙を持ち、ほのかに照らす図書館前の街灯の下で島田は彼女を待った。手のひらにびっしょりと汗をかき、その汗を10月の夜の風が乾かす。誰もいない図書館前の暗い小道の両側から珍しい小動物でも顔を出しそうな静かな夜だった。

現れた彼女は緊張した面持ちで、島田を見上げた。その瞳が静かに真剣に島田を見つめている。心臓の鼓動に合わせて、一言一言島田が気持ちを伝えると、それを彼女は落胆とも緊張とも判別がつかぬ表情でただ黙って聞いていた。

島田は何度も吃もりながら話し終えた。彼女はそんな島田をじっと見つめて、いちいち頷いて聞いていた。自分の気持ちに気付いていたかという島田の問いに対して、彼女はしばらく考えた後、もしかしたらと思ったことはあったと答え、自分が交際している相手は島田の良く知っている同じ署の伊藤先輩だと言った。驚く島田に気付いてか気づかぬか、彼女は

「手紙・・ありがとう・・読ませてもらうね・・」とだけ言って、いつか少年宅で初めて彼女に会った日のように、甘く淡い匂いをその場に残し、小道の闇に消えていった。島田はあの日と同じように、ただ黙って彼女の消えた先の草木を呆けたように見つめては、いつまでも島田の眼前に彼女の艶やかな髪が揺れた。

10月のある晩、島田は久しぶりに自転車盗を検挙した。いつものように自転車盗を狙い、終電が終わった後の甲州街道で立っていると、背広姿の酔った若いサラリーマンが自転車に乗ってフラフラと蛇行運転をして近づいてきた。島田に気付かず、そこを通り過ぎようとしたところで声をかけると、心なしか男は表情を変えた。いつものように防犯登録紹介をすると男が申し述べた名前と別の所有者名が出てきて、島田が問い詰めると男はおどおどと戸惑いながら、道端に留めてあった自転車を勝手に乗ってきたことを認めた。

窃盗犯か占有離脱物横領犯になるかはさておき、他人の自転車を勝手に乗ってきたのは間違いなさそうであったので、島田は署や相勤員に無線で連絡し、その男を一旦交番に連れ、その後署へ連れて行く。勤務成績になる刑法犯の検挙に、係長達や相勤員はいつものように喜んでいた。

夜中2時過ぎの警察署の中で、自転車を盗ってきた男は体を縮めて座っている。夜更けの澱んだ空気の中で、署内の全ての色が薄くくすんで見える。気だるそうな警察官に話を聴取されているのを、島田は必要書類を整えながら横目で時々見ていた。週末でもないが、会社の同僚とでも飲んでいたのか、サイズの合わぬ大きすぎるスーツの上下とYシャツにはよれよれに皺が入っている。穿きつぶした靴は踵の外側だけが大きくすり減り、O脚で歩く男の姿を島田は思い浮かべる。中肉中背の躰にはみっともない脂肪が腹回りにたくさんついているだろう。捕まったことに今更気づき落ち込んだ顔には、浮いた脂が乾いてその顔を汚している。年の頃はおそらく島田と同じくらいであろう。まだ若いのに、なんだか疲れた目をして、脂ぎった髪の毛は乱れ、やや薄くなり始めている。

上司とともにその男をパトカーに乗せ、自転車を盗った現場に連れて行く。意気消沈した小さな声で「ここで自転車に乗りました」と述べ、現場を指差した写真などを撮られていた。夜道は暗く、車も人も誰もいない。上司二人が何やら話しており、島田に向かい「おい島田、そいつ見とけ」と言い、その場を少し離れて歩いていった。

2、3歩距離を置いたところで男の顔も見ずに島田は立っていた。

「仕事大変?」ピンと張りつめた暗く冷たい夜の中で、島田は男に話しかける。

「え?」男は予想外の質問だったのか一度聞き直したが、

「・・・しんどいですね。 怒られることばかりで・・」

「嫌なこと多いよな、仕事。」わざと低い声を出して、敬語を男に対して使うべきか否か考えている自分が島田は嫌になりながらそう言った。

「え?」島田の言葉が意外だったのか、また男は聞き返したが、

「警察官もそうですか。」安堵したような、どこか嬉しそうな声で男は言い、さらに続ける。

「おれ、うまくいかないことばっかりで。仕事だけじゃなくて。今日だって愚痴ばかり言いながら飲んでて、それで今はこのざまでしょ・・」

「何となくわかりますよ。おれもうまくいかないこと多いし。」島田はなぜかそう答えると、横に立つ男の方を向いて微笑んだ。暗闇に立つ男の目が、島田を見ている。驚いているような、何かに追縋るような目つきで、うだつのあがらぬ顔が島田を見ている。

島田は、制服の内ポケットから缶コーヒーを取り出すと、男に差し出した。先ほど署をパトカーで出る前に、後で眠気覚ましにでも飲もうと買っておいたホットコーヒーは、まだ温かかった。

「これ、良かったら飲んでくれ・・。お互い頑張ろう」と右手を島田が差し出すと、男はおずおずと島田の右手を握り返し、長い間俯いて顔を上げなかった。

 

夜勤が明け、退署し寮に帰ると、いつものように2係の若手警察官が1階の寮務室前に集まって話しをしている。島田は横を通り過ぎ自室に戻ろうとしたが、先輩のひとりが島田に向かって話しかけてきた。

「お、島田、昨日1台つかまえたんだってな。おれなんて最近全然だよ。昨日はその代りに、強わい犯なんて捕まえちゃったよ。ははは」

周りにいた何人かの後輩達がそれを聞いて笑っている。何がおかしいのか皆目見当つかぬが、既にその後輩達はその話を聞かされてオチを知っているのかもしれぬ。

「そいつさ、夜中に塾帰りの中学生の服脱がしちゃったの。通報されて俺につかまってんだから間抜けだよな。で、その脱がされた中学生、オトコなんだぜ。ははは。『ぼく、同性が好きなんです・・誰にも相手にされなくて、つい・・』だってよ。はははは きもいよなぁ」

周りの新人警察官達がどっと笑う。夜勤明けで寝ていない分、なんでも笑えるのかもしれぬが、それを差し引いてもちっとも笑えぬ話だと島田は思う。

「てめーは女が好きで良かったな。今から風俗でもいくのか?」とも言えず、間の抜けた愛想笑いを浮かべ島田はその場を立ち去った。

 

彼女から少し話したいと誘われたのは11月になって幾日か経った日のことだった。返事は要らぬと手紙に書いてはいたが、彼女から何か反応があるかもしれぬと期待していないことはなかった。10月半ばに彼女と話し手紙を渡して以来も、島田はこれまで通り教会に通っていたので、彼女と顔を合わせる機会は多かったが、会話をする機会はなかった。

その日の夕方、島田は淡い期待と緊張を抱いて、大分寒くなった外気を自転車で切って、待ち合わせのファミリーレストランへと向かった。レストランの入り口から、黒いセーターを着てなんだか浮かぬ顔をして座っている彼女を認めた。テーブルの上にきちんと置かれる彼女の手がきれいだ。白く長い指は長方形の美しい爪を包み、静かに俯いていた。島田が近づき席に着くと、彼女は島田に向かい微笑んで、来てくれてありがとう等と言う。しばらくいつもと同じように身近な人たちの笑い話等した後で、彼女は、伊藤さんと今後も付き合っていくつもりだということ、島田の気持ちと手紙は本当にうれしかったということを、懸命に、小さい子に説明でもするかのように話した。彼女がなぜか哀しげに見えた。島田は彼女のひとつひとつの言葉に相槌を打って熱心に聞きながら、言葉はまるきり頭の中に入ってこない。ただ、頭がやけにぐらぐらと回り、心の中で、動揺するな、また振られただけだ、と繰り返し自分に言い聞かせた。

彼女は伊藤先輩と4年前に教会で知り合ったことや、伊藤先輩の両親がクリスチャンということもあり、4年前、署に配属された伊藤先輩自ら教会を訪れたこと、最近自分が島田と仲良くしていることも伊藤先輩にはちゃんと話してあることなどを、何だか言い訳をするような口調で島田に教えてくれた。彼女は他にも伊藤先輩とのこと等をいくつか話していたが、それらの話にいちいち頷きつつも、島田はよく聞いていなかった。微笑んでいるのだか、困っているのだか分からぬ表情で、話し続ける彼女の唇の動きを、見るとも見ないとも判別できぬ感じで己の視界に入れている。ファミレスの赤いボックスシートに座る彼女の目は閉じられ、何かを堪えるかのように口は曲がった一文字に閉じられている。彼女の肢体はくねり、汗とも体液とも判別できぬものが滴れば、先輩の長く逞しい陰茎が島田の眼前に浮かぶ。広背筋の発達した先輩の大きな裸の背中が、彼女を覆うと、彼女の表情は悦びに曇った。先輩は一切こちらを振り向かず、後ろ姿しか見えなかった。玉のような汗を乗せた先輩の逞しい背中が動く度に、彼女の苦悶するような顔が隠れては現れる。先輩の大きな肩越しに何度目か彼女の顔が揺れ出た時、彼女は島田に気づき、目が合った。一瞬大きく見開いたその目は、羞恥のために赤く燃えたが、それでいて快感に押し流されるように表情を曇らせながら、再び先輩の肩の下に彼女は消えて、もう2度と島田の眼前に現れなかった。

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