【警察小説・Kiss the Rain】第8話 夏③

警察官小説(事件が起こる話ではない)

夏の終わり、9月半ば、小学校運動会の日を思い出すようなカラっとした清々しい晴天の日、島田は久しぶりに死体を触った。お昼2時頃、普段勤務には就かない駅前の交番の中で、気持ちの良い陽射しを感じながら島田は出前の食事を食べていた。麺を矢次早にすすっていると、胸ポケットに入れた受令機が110番を受信する。

「調布市小島町1丁目、110番。アパートの部屋の中から異臭がする。変死の模様です。最寄りの警察官は現場に向かってください。」

その日、交番内には島田を含めて4人の警察官がいた。1人は署に配属になったばかりの新人だったから実質は3人で、中年の主任ともうすぐ留置係に異動になるという噂の若い班長と島田である。班長も同じ寮に住む新人警察官ではあったが、新人の中では一番の古株級であった。その日、島田がその交番に勤務になったのは、夏休み中の同僚に代ったいわば臨時体制であり、本来の受け持ち地区ではなかった。島田は食事休憩中でもあったし、すでに休憩を終えた班長が新人を従えて、その変死と思しき110番を扱うのが順当ではあったが、出前の野菜そばをすすりながら見上げると、主任も班長も明らかに行きたくなさそうであった。間の抜けた10秒ほどの沈黙が交番内に流れる。

「僕が行きます。」

島田は口いっぱいに入れたそばを飲み込んで言う。

「いや、でもお前まだメシ終わってないだろ・・」期待を込めた口調で班長が応え、主任は少なくとも自分は行かなくてよいだろうという風に、少し距離を置いた場所でそっぽを向いている。

「いや、もうほとんどメシ終わったし、行ってきますよ。」

「そうか・・悪いな・・じゃあ頼む。こいつ連れてくか?」安堵と申し訳なさそうな表情を浮かべ、班長は新人を指差しながら言う。

「いや、一人でいいですよ。変死なら刑事の人たちも後から来ますし。」と島田は班長に応え、

「変死いくら扱っても評価にならないんだから、自転車盗の見つけ方とか切符の切り方、教えてもらえよ」と新人に向かい、さして思ってもいないことを島田は言う。一人の方が気が楽だった。

「ありがとうございます!」新人がやたらでかい声で、交番を出る島田を見送る。主任は相変わらず我関せずといった感じで、まだそっぽを向いていた。

交番を出ると9月の爽快な風と陽射しが島田の顔にあたった。重い警察チャリも心なしか軽い。小さな商店街を抜ける。買い物をする若い女の子、主婦、Yシャツ姿の会社員。街往く人たちもさわやかな午後の天気を楽しむかのように笑顔が多く、街全体の時間がゆっくり流れているかのようだった。

明るい陽射しの差し込む商店街を抜け、アパートや一軒家が隙間なく立ち並ぶ猥雑な一角に自転車を進み入れる。日当たりの悪い、クリーム色の壁に緑色の小さな黴がこびり付いた2階建てのじめじめしたアパートが現場だった。風の入らない狭く錆付いた階段を上り2階に出ると、丸眼鏡を掛け、背が高く太った管理人が立っている。まだ起き抜けなのか、寝癖のついたままの、禿かけた髪の毛が逆立っていた。半袖ポロシャツの下に、不動産管理で得た収入で脂肪を溜めこんでいる。例によって迷惑そうな顔を浮かべ、制服姿の島田を見るなり言う。

「本当に迷惑なんだよね、こういうの。もう何とかしてくれよ、すごい臭いで、住人から苦情出てるんだよ。さっき鍵開けてドア開いたら、もうものすごいにおい。困るよ、本当に。」

管理人は何かさらにぶつぶつ呟いていたが、島田はそれを無視し、

「部屋の中には入って確認したんですか」どこか責めるような口調で聞いた。

「確認?あの臭いの中を、おれが? まさか。大体そのために警察呼んだんだろ」

管理人はいかにも心外そうに、怒ったように応える。

ばか野郎。てめーは管理人じゃねーのか。こういう奴らがいるから税金が増える。そしてこういう奴らに限って公務員を非難する。島田は思うが、顔には出さず、その部屋はどこかと聞いた。管理人はまだ不満そうに、そこから30メートルも離れた2階の一番奥の部屋を指差した。

島田は薄いクリーム色のゴム手袋をはめながら、部屋に近づいて歩く。建物が隣接し、風が入ってこない外廊下は空気が澱んでいる。部屋に近づくにつれ、確かに生臭いような臭いを感じた。管理人は先ほど居た場所に一人残り、遠くからまだ不服そうな目でこちらを見ている。

重いドアを開けると、死体の臭いだとすぐに思った。何とも言えぬあの吐き気を催す臭いが島田の鼻に入る。自然に島田の呼吸回数が減る。効果はほとんどないと知りつつも、持参した炭素入り脱臭マスクをつけた。夏の間中締め切っていた部屋のムッとする空気が、生臭い臭いと混ざり合い、島田の皮膚をぬめぬめと撫でる。暗い玄関からは部屋の中は良く見えないが、乱雑にものが散乱している様子は伝わってくる。念のため「ごめんください、入ります」と大きな声を部屋に投げ入れた。

玄関で警察短靴を脱ぎ、床を何歩か歩いたところで、ぬるっとした感触が足の裏にあり、2‐3cmほど前に島田は片足を滑らせた。暗い室内で嫌悪感と共に、靴下裏と床に交互に目を凝らすと、どうやら床の上に嘔吐物か血液が凝固してあるようだった。鳥肌が立つようなぞっとする不快感を覚え、慌てて玄関に戻ると湿った片方の靴下を脱ぎ、靴を履いた。

靴のまま、なるべく床上の吐瀉物やら血やら分からぬものを避けるようにして室内を進み入る。6畳ほどの、カーテンを閉め切った暗くじめじめとした部屋の中、蠅が何匹も何匹も部屋中を飛び回る。

死んでいる。

灰色のしなびたソファの前で、50代くらいの痩せた男が床に座りこみ、首根っこの部分から頭をだらんと項垂れている。両足を45度くらいに大きく開き、長ズボンを穿いた棒のように萎えた両足を、床の上に真っ直ぐ投げ出している。皺っぽい痩せた体を包む、エンジ色の乾いた長袖Yシャツが第2ボタンまで開いている。そこから覗く貧相な胸板が寂しい。皮膚は真っ黒で、ところどころ湿疹のようなブツブツが浮き上がっていた。項垂れる顔は良く見えぬが、鉛筆で顔全体を漫画みたいに塗りつぶしたように暗く黒い。海苔のような髪の毛が頭に張り付き、細い両腕はだらしなく体側に垂れ下がる。死体を取り囲むように、床の上に何か黒々とした液体が薄く膜を作っている。吐血したのか、嘔吐か。白い無数の蛆がその膜の表面で蠢いていた。

島田は死体から1メートルくらいのところで立ち、しばらく死体を上から見下ろしていた。暗い部屋の中で、若い男と死体が対面する。島田は何事かを思い、そこに立っていたが、しばらくして外に出た。

外に出ると、管理人はさっきと同じ場所に立っていた。島田はそこまで行って、亡くなっていますとだけ伝えると、

「ふざけんなよ・・困るんだよ・・ほんとに。部屋はどうなってんの? なんで死んでんの?」

島田は内心腹立たしく感じたが顔には出さず、

「亡くなった状況はこれから来る者と一緒に調べます。」とだけ答え、亡くなった男の情報を分かる限りまとめてくれるよう依頼した。管理人は明らかに不満そうな表情で階下に降りていった。

島田は淡々と仕事をした。無線で状況を報告し、刑事課の署員を呼ぶ。若い刑事と中年の刑事が2人で臨場すると、島田はその指示に従って部屋の状況を調べた。持ち物を調べ、遺体の状況調査を手伝う。状況から考えて、死後何週間も放置されていた様子だった。普段は肛門に体温計を突っ込み検温するが、その時はしなかった。部屋には、空いた酒瓶や発泡酒の空き缶、コンビニ弁当の容器等、ゴミが散乱している。錠剤や粉薬やら、様々な薬が至る所に見つかり、刑事たちは病死かオーバードースだな等と話している。床に落ちた紙切れに、「病気に疲れた。しにたい」と書かれていた。島田はむせるような臭いを耐えながら、ただ黙々と作業した。

ゴム手袋を2枚重ねにしても、血液やら排泄物やらの嫌な感触が島田の手の平にしっかり伝わってくる。濡れた死体を抱え込み、冷たい感触が体全体に走った。島田の制服に死体の臭いが染み込み、足を動かす度に島田の靴と床がネチャネチャと音を立てた。死体を部屋から運び出す。ブルーシートに仏を包み、3人がかりで狭い階段を降ろしたが、痩せこけた仏の躰はやけに重かった。管理人はそれを見て、おろおろとし、部屋はどうしたらよいか、どうしてくれるのか等と何度も聞いていた。

白い警察ワゴンに仏を乗せて、署までの道を走る。刑事達は運転席と助手席に座り、何やら別の事件の話をしている。島田はワゴンの後ろの荷台で、死体の隣に座り、ブルーシートに包まれたそれをじっと見ていた。長い間病気と貧困とおそらく絶望を与えた上に、ひとりぼっちで死なせる。蠅が飛び蛆の湧く、炎天下の暗く蒸した部屋に長い間放置し、そして今、シートに包まれ、ゴミのように警察署に運ばれようとしているこの男。なんであなたは・・。島田は目を瞑り、心の中で彼のために祈りの真似事をした。目を開けると、運転席の刑事たちは先ほどの話を続けている。信号待ちをする警察ワゴンの大きな横窓から、4人組の女子大生らしき女達が通り過ぎるのが見えた。無声映画のように何も聞こえないが、何事かを笑い合いキャピキャピして歩く。明るく華やかな色のふわっとした服装に身を包み、みずみずしいその肌が9月の午後の明るい陽射しに照らされ、柔らかそうに白く輝いていた。

その夜、島田は流星を見た。深夜の甲州街道で、ひとり制服に身を包み、まばらに通る車の音が日本海の砂丘を打つ波音のように聞こえる中、星の流れるのを見た。9月の高く冴えた空、濃紺の夜を切る一筋の青い閃光だった。

長い夜勤の夜が明け、朝が来る。その朝も、運動会開催を知らせる段雷がどこからか聞こえてきそうな清々しい9月の朝だった。1時間半ばかりの仮眠を取った後、島田は3係との交代準備のために、交番を掃除していた。気合を入れて便所掃除を済ませると、気分が晴れやかになる。このところ、島田は便所掃除を熱心にしていた。誰に言われたわけでもないが、それが自分の大事な仕事と考えた。

交番の外で、ゴミ入れの大きいポリバケツを洗っていると、午前10時の柔らかな日差しが、ホースから流れ出る水をキラキラ光らせる。ポリバケツを洗っている間、30代くらいのYシャツ姿の男達の会話が島田の耳に入ってきた。バケツの手を休め、見上げると、背の高い痩せた男と小太りの背の低い男。2人とも申し合わせたように、似たような瀟洒なシャツに身を包んで綺麗に整えた髪をしている。交番を目印にして、誰かと待ち合わせでもしているのか、交番の横の街路樹の下で、何やら男二人で話し込んでいる。

「政治が悪いよな。ぜんぜん景気も良くならないし。それなのに政治家や官僚は良い思いしてる。とにかく、上で色々決めてる奴らがちゃんとやれてないよ。」

「政治もうまくいってないかもしれないけど、そもそも社会システムがおかしいね。欲望資本主義が限界なんだよ。労働の軽重や、社会にどれだけ価値や利益を生産したかで報酬が決まっていない。単なる欲望による人気投票で報酬が決まってる。消費行動が市場に出回るモノの量と価値を決めるていうのは言わずもがなだよな。さらにその消費行動が、そのモノの生産に従事する人間の収入を決めるというのもだな。釈迦に説法ですまん。で、その消費行動をさせるのは、欲望だよな。つまり、世の中のモノの量も価値も年収もほとんど、欲望による人気投票で決まってる。だからギャンブルとかその他娯楽が溢れてる。IT業界に優秀な人達の膨大な時間が割かれるのもそのためだよな。分かってること長々とすまんな。でも、不要な産業、仕事が多すぎるよ。それに、今の社会は分業化が進み過ぎて、昔は自分でやってたことも、誰かにやってもらうようになってる。社会全体が、みんなを忙しくするシステムになってる。大昔と比べて、生産性が遙かにあがっているのに、余暇があまり増えていないのは、そのせいだ。もっとゆとりをもって働ける社会に本来なるだけの能力があるのに。まずパチンコとか風俗とかはなくなっていいな。はははは、お前は困るか。冗談は置いておいて、人間の欲望にあわせたシステムじゃどこかで破綻する。でも社会主義だってうまくいかないんだよな。とにかく、今の社会は表面に表れた病気や怪我ばかり治療してる。そんなんじゃ駄目だ、もっと根本から治療することが必要だよ。だけど、必要なのは難しい政治や経済の理論じゃない、ただの愛だ、優しさだ。社会はもっと小さくなっていい。ならなきゃならない。国家という体系そのものが無理のあるシステムだという気もするな。」

「欲望にあわせたシステムを変える、不要な仕事なくすってどうやるんだよ。大体、愛だ、優しさだって何だよ。 優しく優しくって、高齢者、低所得者、障害者、病気持ちみたいな社会的弱者を社会全体でもっと支えろって?生活保護や高齢者福祉とか充実させて、逆に社会全体を弱体化させてるんじゃないの?弱い奴等を守って、そいつらが本来育てられない子どもを作って、今度はその子どもを社会全体で支えろって? それって負の連鎖を社会が助けてるとも考えられないか?遺伝子レベルで社会が弱くなるよ。」

「いや、愛や優しさって、社会的弱者を甘やかすこととは違うよ。欲望にあわせた仕組みを変えると同時に、 弱者が自立できる社会を作ることを俺は愛や優しさと言ってるんだ。愛は厳しいもんだよ。彼らが働ければ、その分社会は強くなる。それに、自立すべきは社会的弱者だけじゃないんだ。社会全体が、依存を無くして自立しなければならない。例えば、今まで公共機関がやっていた仕事を民間でやる。民間がやることによって、効率的にもなるし、不要な仕事を無くす分の雇用も、そこで新たに生まれる。 社会や他者に依存しないというのは、自己中心的に生きることとは違う。 自立できてこそ、他者への配慮ができるようになると思うんだ。」

黙れ、能書き野郎。

暗くじめじめとしたアパートの一室でひとり貧しく病死していた男の姿が島田の目に浮かぶ。島田は話し込む2人の男達の横で、空色のゴミバケツに太陽光を反射してキラキラ光る水を放り込み、力を込めて洗い続けた。

交番から署内に引き上げ、勤務終了、解散になった後、署内の廊下で、島田は昨日変死体を一緒に扱った若い刑事とすれ違った。その警察官は、数年前に島田と同じ地域2係から刑事課に異動になった刑事で、今でも地域2係の若手警察官には親しみをもっているようだった。その刑事は新人と同様、まだ寮に住んでいることもあり、2係の若手警察官も、親しみと敬意を持って彼に接しており、時々2係の若手警察官らとその刑事は飲みにも行ったりしているようだった。ただ、島田は2係の若手の付き合いに顔を出さないことも手伝って、その若い刑事とは仕事の指示を受ける以外、挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかった。

その時も、島田はただお疲れ様ですとだけ挨拶をして、彼の横を通り過ぎようとしたが、その刑事に呼び止められた。

「よう島田、まあ、そんな逃げるように通り過ぎるなよ。

お前、付き合い悪いんだってな。2係の連中から色々噂聞くよ、はっははは。警察、嫌いか?

だけどよ、お前、いい警察官になるよ。皆が嫌がる変死だけど、お前は目の色変えて死体運んでた。前に一緒に変死やった時も思ったけど、昨日もお前見て思ったよ。」

若い刑事はそう言うと、島田の返答も待たずにさっさと行ってしまった。島田は廊下を歩く刑事の後ろ姿を見送り、振り返ると、廊下のガラスに映るミイラ顔の自分と目が合う。その男、眼光鋭く情

熱に燃えた目でこちらを見ているように感じ、島田はどこか誇らく思えた。

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