【警察小説・Kiss the Rain】第7話 夏②

警察官小説(刑事モノではない)

涙が溢れ出し、次から次へと流れ落ちた。暑い夏の夜の教会で、島田は泣いた。理由も分からず、涙が溢れ出した。膝の上で固く握る手の甲に、大きな涙の滴がいくつもこぼれおちる。

その日、島田は教会で初めて祈り、皆と一緒に歌った。教会に通い4か月、島田は祈ることや歌うことは頑なにしてこなかった。神を信じていない、信じられない自分がそうすることは、失礼だと思ったし。そうする自分を想像すれば、鳥肌が立った。偽善者にはなりたくない。卑怯者、せめて嘘はつくな。

ただ、島田は自分ひとりの時、皆の祈りを真似てみたりはしていた。夜勤中どうにもイライラした時など、そっと祈ると不思議に気持ちが落ち着いたりした。島田の祈りは、警察署の便所や、暗い月の照らすグランドなど誰もいないところでのみ行われた。また、教会からの帰り道、川沿いの暗い夏の夜道を、その夜皆が歌っていた音楽をひとり静かに歌ってみたりした。夏草の匂いが川風に運ばれて、自転車を漕ぐ島田の鼻をツンとさせた。

しかしどうしても、皆の前では、皆と一緒には、祈れないし、歌えなかった。それはしたくなかった。教会の皆は、祈りも歌いもしないが教会にほぼ毎週欠かさず通ってくる島田を不思議な目で見ていたかもしれぬが、誰も気にしているようには見えなかった。前に述べたとおり、むしろそれを島田の誠実さと受け止めているようなふしさえあった。ただし、何気ない会話の中で、クリスチャンでなくとも勿論祈って良いし、歌って良い、神はそうしてほしいと思ってるよ、と彼女を含めた何人かが島田にそれとなく言うことはあった。

その日も、教会の窓からは夏の夕暮れが見えた。落ちかかる夕暮れが、夏の匂いと一緒に小さい窓から入ってくる。みんなはそれに気付いていないかのように、歌を歌い続けていた。その歌が、あんまりきれいで、悲しくて、楽しそうで、島田の心臓を何度も叩く。Blessed be  your name アップテンポのその曲に合わせて、皆の手の平が上がる。足を踏みリズムをとる。祈り謳う人垣に囲まれて、その下で島田はいつものように硬く背筋を伸ばし座っていた。鼓動は速く、前を見て、無表情で。

島田はその曲が好きだった。初めて教会に入った日にも、皆がその曲を歌っているのを見た。なんだか垢抜けない古臭いリズムに合わせて、垢抜けない褐色の土人達が、真剣に、気持ちよさそうに手を上げて歌っている。汚れた服の小さい子供も、その若い親も、強がっているティーンネイジャーも、思慮深そうな20代の女の子も、みんなが口を大きく開けて、自分達の謳う音楽に酔っていた。春の宵の風が、バラック小屋のような教会の白い部屋に気持ちよく流れこんでいた。島田はその光景を、その音楽と歌声を、本当にきれいだと、神聖だと思った。

その歌が、流れていた。固く座る島田の鼓動を速くする。固く座る島田は俯き、両拳を膝の上で握ったが、踵は音楽に合わせて動いていた。いっそ立ち上がって歌いだそうか、曲の途中で何度も島田は思う。踏ん切りのつかぬまま、座り俯いたまま曲が終わる。ほっとしたような、それでいて残念なような気持ちを、その日も島田は感じた。

キーボードを弾くパスターが、「one more time!」と楽しそうな笑顔で叫び、2度目のその曲が始まった時、島田は思わず立ち上がった。顔を固くして、皆に合わせて手拍子をすると、何だか分からぬ冷汗がぶわっと体中の汗腺から噴き出す。島田が立ち上がり歌っているのを誰も気にする様子はない。自意識過剰のかっこつけ野郎。そんな言葉が一瞬頭に浮かんだが、それより島田は、初めて教会で歌う曲がこの曲であることがうれしかった。座って何度も聞いているこの曲、歌詞もリズムも覚えている。立ち上がった以上、口を大きく開けて島田は歌った。大きな声でリズムに乗って。気持ちがいい。愚直な歌声の中に、きれいな何かの中に、自分も混ざり合う。前に立つ人たちの間の丸い隙間から、皆の前でドラムを叩く彼女が見える。気持ち良さそうに、体を動かしドラムを叩く彼女の黒く真っ直ぐな髪が、汗を吸い込んで濡れている、揺れている。思い思いに手を上げて祈る皆の姿が、目の前の水の中に浮かんで、スローモーションのように見えた。

涙が溢れ出し、こぼれ落ちた。暑い夏の教会で、島田は泣いた。理由も分からず、涙が零れた。窓から見える夕暮れは落ちて、夜の空気に変わっていた。歌う島田の口に涙が入り、しょっぱかった。人には気づかれぬよう、島田は涙を肩で拭いて、歌う。祈り歌う皆の中で、ひとり直立で、島田は歌った。

6、7m先のステージで、ドラムから目を離し顔を上げた彼女と、島田は目が合った。彼女は島田が立ち上がって謳っているのを知っていたかのように、優しい目でこちらを見ていた。彼女の顔に微笑みが浮かぶ。その包み込むような微笑には、肯定も否定も称賛も非難も含まれていなかった。はじめからこうなることを知っていたかのような、おだやかで暖かい微笑み。彼女は微笑したまま島田から目を逸らさない。ドラムを叩くリズムをとって、彼女が何度も頷くと、それは島田に向かう頷きのように見えた。

曲が終わったが、若いパスターはキーボードの演奏をひとり止めなかった。いつしか彼の演奏は何か静かでゆっくりとしたピアノ曲に変わっている。いつかどこかで聞いたことのある哀しく、きれいなピアノの旋律。パスターは目を瞑り、祈りの言葉を続ける。周りの皆も、今まで演奏していた他の3人も、手の平を上に向け祈っている。島田はひとり静かに着席し、背筋を伸ばして目を閉じた。明るかった周囲が、祈りの人垣に囲まれて、暗くなる。

パスターはいつものように祈った後、こう付け加えた。

「我々の仲間である若い実直な警察官のために、祈らせてください。彼があなたを受け入れられますように。彼は誠実なこころの持ち主です。真剣にあなたを求めています・・・・」

そこから先は良く聞こえなかった。目を瞑り固く座る島田の周りで、皆の無言の祈りが島田に向かう。温かい何ものかが、かたまりとなって、島田の上から降りてくるように思えた。

涙が溢れ出し、次から次へと流れ落ちた。暑い夏の夜の教会で、島田は泣いた。理由も分からず、涙が溢れ出した。膝の上で固く握る手の甲に、大きな涙の滴がいくつもこぼれ落ちる。まっすぐに固く伸ばした両肘につながる肩が小刻みに震えた。

目を瞑り座る島田の右大腿に、温かな手がひとつ置かれた。まっすぐ揃えられた5本の長い指から、島田の太腿に彼女のぬくもりが伝わってくる。目を閉じていても、自分の右となりに座ったのが彼女であることを、島田は感じていた。彼女の甘い匂いが、細く黒い真っ直ぐな髪が、ゆるやかな肩の曲線が、揃えられ尖った両膝が、張りのある乳房が、ジーンズに包まれた臀部のカーブが、丸いY字の中の柔らかな陰毛が、島田の涙を汚す。彼女の祈りが聞こえる。すぐ隣でささやくように。

「神が、ジーザスが、島田くんのドアを叩いているの。私を心の中に入れてくださいって。」

おれは神を信じたい。信じていいのか。信じられるのか。ドアを叩いているの。白い壁の小さい窓から、夏の月が静かに島田を照らす。頭にかかる小便が洗い流される。ごめんなさい。ゆるしてください。ごめんなさい。

涙が溢れて、止まらなかった。

夏のうだるような暑さの中、島田の体は引き締まっていった。夏に行われると聞いていた署内柔剣道大会だが、いっこうに行われる気配はなく、皆そんな企画があったことすら忘れているようだった。それでも島田はひとりトレーニングや練習に取り組んでいた。炎天下の燦々と降る太陽の下、走り込む。ダッシュをすれば、韋駄天のように速く走れているような気がした。地域の柔道場にも通い続け、柔道好きのおっさんや中高生と一緒にドタバタやる。ウエイトトレーニングによる筋力アップにも余念がなかった。仕事に練習に、運動量が多いから、必然的に食事量も増える。学生時代の筋肉が島田に戻り、風呂あがりに鏡に向かうと、そこに映る自分の漲る体を見て満足を覚えた。

島田は自分でも驚く程、体を素早く動かせた。体重は大きく変わらなかったが、筋肉量がかなり増えたので、体がすごく軽く感じられた。自然、島田の動きはキレを増した。朝稽古では、新人警察官達を得意の背負いでばったばったと投げた。自分より体格の良い者達がほとんどだったが、大抵負けなかった。もちろん、体格が非常に良く、力が強い者が相手では苦戦したが、簡単には相手の思うようにさせなかった。学生時代の柔道経験者でなければ、簡単には負けないと自信をつけつつあった。島田は自分でもなんだかコツのようなものが掴めてきたような気がして、嬉しかった。

署に配属されて以来、署の代表選手としては候補にすら挙がらず、先生からもほとんどまともに指導をしてもらったこともなかったが、最近の島田を見て先生も思うところがあったのか、「背負いを生かしたいなら、お前は小内との連携技を練習しろ」等と声を掛けられ、指導を受けたりした。それ以降、島田は馬鹿のひとつ覚えのように、小内刈りから背負いの連絡技を、ほとんどそれだけを練習した。朝稽古は勿論、夏の月が照らす暗いグランドでも、走り込みの合間にも、ひとりでひたすら打ち込みの真似事をする。地域の柔道場でも、中学生や柔道好きのおっさん達に混じって、小内と背負いのコンビネーションばかり練習する。勤務中、真夜中3時の甲州街道で、走りくる自転車を待つ間も、ひとり打ち込みの真似事をしては制服を汗で湿らせた。

朝稽古で、島田と同じような素人相手にその連携技は面白いように掛かった。相手が島田の背負いを警戒し、相手が重心を後ろにすれば、島田は小内でその足を刈る。小内刈りを警戒させて、相手の重心が前に移動すれば島田の背負いが効いた。背負いだけで組手をしていた時よりも、きれいに、少ない力で相手を投げられた。3分間の組手の間に、何度も投げる。暑くむっとする柔道場で、島田と相手の体や柔道着は汗でぐちょぐちょになる。投げられる度、その相手は細く長身の躰をゆっくりと起こし、下から恨めしそうな目で、その顔を汗でびしょびしょにさせて、島田を見上げた。島田は、自分より長身のその男を上から見据えた。細く小さい骨格の上に、逞しく漲る筋肉に島田は力を入れ、拳を握り見た。おれは決して弱くない。

島田が朝稽古を張り切るのを、皆ははじめ奇怪な目で見ているだけだったが、その内に煙たがる者が多くなった。朝起きてすぐに、むきになり本気でかかってくるうざい奴がいる。起きたばかりで全く本気でやっていない連中を何度も投げて、それで強いつもりになっている勘違い野郎がいる等と、島田にとって良くない噂まで流れているらしかった。署内で他係の若い先輩警察官とすれ違う時には冷ややかな目で見降ろされたりもした。

じきに柔道経験者達が島田の自惚れを潰すために朝稽古に出てくる等という話も、島田の同期の男がまことしやかに話しており、島田は内心びびっていたが、署内や寮内ではこれまで通り何食わぬ顔で過ごした。空気の読めない奴と思われていてもそれで良い。

そういう噂も手伝って、島田はそれまで以上に練習とトレーニングに励むようになった。島田の顔は夏の太陽によって精悍に日焼けし、大きくはない骨格の上にしなやかな筋肉を纏う。白い柔道着が島田に良く似合い、畳の匂いが強い柔道場に立てば、一見幼少時から柔道を続けてきた男に見えた。

自ら課した厳しい練習を、島田は己の性欲を抑えるためにも行った。

あの教会の夜以来、島田は自慰を止めた。自慰を止めて3週間も経つと、島田の性欲は頂点に達した。島田は自分の睾丸上部にかつてない程の量の精液が渦巻いているのを感じる。勃起が頻繁に起こり、実際にはそんなことはなかろうが、陰茎の先がわさびを食べたようにツーンとして、今にも蛙の卵のようなドロッとした精液が出てきてしまうのではないかとすら思う。勤務中でも、かつて興奮したインターネットのエロ動画が頻繁に島田の頭に浮かぶ。電車内では、座る女性の太腿とスカートが作る三角形を探しては釘づけになった。休みの日や非番の日には、用も無いのに近くの小さい街の繁華街をうろつき、通り過ぎる露出の多い女性の胸や尻を嘗め回すように、血走った眼で見続けた。ムンムンと湿度の高い日々、夏の太陽にじりじりと照らされるコンクリートの上で、島田の性欲は夏の陽炎のようにゆらゆらと燃えた。

島田はそんな時、決まって走りに出た。昼でも夜でも、欲望が沸き起こる際、懸命に走り、筋トレをし自分を追い込むことで、悶々とした気持ちを忘れられた。しかし、運動を終えてしばらく休めば、欲望がまた顔をもたげてくる。見知らぬ女の肢体が目に浮かび、己が手が勝手に股間をまさぐる。その手を払いのけ床に就けば、夜半、べちょべちょに濡れた下着の感触で目が覚めた。ゼリー状の半固形の液体が島田の陰毛に絡み付いている。相部屋の若い警察官を起こさぬよう部屋を静かに抜け出す。薄暗い廊下を抜け、共同の洗面所で濡れた下着を洗っていると、眼前に見上げた四角く小さな窓から、鈴虫の泣く静かな夏夜に、青くさめざめと輝く月が見えた。

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