【警察小説・Kiss the Rain】第6話 夏①

警察官小説(刑事モノではない)

《 夏 》

仕事と自慰と教会と柔道を繰り返し、季節は春から夏へ移っていった。毎週、土曜夜の教会は10代、20代の若者で埋まった。島田は何度か教会に通った後知ったが、若い牧師の提案で、土曜夜の教会はその対象を若者にしているとのことだった。教会の雰囲気や、教会で歌われる音楽が、島田の持つ教会のイメージと随分違ったのもそのためかもしれなかった。参加者はインターナショナルで、様々な国籍の人達が来ていた。日本人が半数前後を占めるが、次いで東南アジア系の外国人が多い。共通言語として、祈りや牧師の話は英語で行われることもあり、音楽は決まって英語の曲が歌われた。以前抱いていた宗教への抵抗感のようなものを島田があまり感じなかったのは、そういうところに理由があったのかもしれない。

島田は教会の窓から、春から夏に季節が変わるのを見た。熱気を逃がすために開け放たれた教会の小さく四角い窓の中で、入道雲が夏の強い夕日でオレンジ色に染まり、やがて夏の夜の淡い黒に染まっていくのを島田はいつも見ていた。時折部屋に入る夏の夜の涼しい風が、島田の日焼けした肌に爽快だった。長椅子がいくつも並べられた白い部屋の中に、若い笑顔と憂いが混ざる。たくさんの若い体から夏の汗が噴出し、ピンと張った肌をみずみずしく見せる。始まりの祈りを終え、若いパスターをリーダーとした演奏が始まると、皆立ち上がり口を開け謳う。青く濡れた音楽や、赤く乾燥したアップテンポの曲に合わせた歌声が白い部屋の四方に充満する。片手を空に向けて目を瞑り歌う若者。上向きに張った乳房の前で、両手の平を上向きにし、空から何かを受け取るような姿勢で歌う若い女。真っ直ぐに立ち、手をポケットに突っ込んだまま、目をつぶって歌う若い男。様々な形の歌声と祈りが合わさり、その光景は島田を毎回硬直させた。

教会に通い出して3ヶ月以上が経っていたが、祈りや音楽の時間になると、皆が立ち上がる中で、島田は一人硬直したまま座っていた。周囲で立ち上がる人達の垣根が嫌に高く聳え立っているように感じる。白い部屋がなにやら神聖な空気で溢れ、自分のいる場所にだけ黒が渦をまいているように感じた。おれはクリスチャンじゃない、おれは神を信じられぬ。その資格もない。祈りもせず、歌いもしない島田について、教会の皆は何も言わず、何も聞かなかった。むしろ、それを真摯な態度と教会の皆は受け取っていたのかもしれぬ。背筋と表情を固めて座り、なんだか分からぬ冷や汗をかきながら、島田は皆の歌声を綺麗で神聖なものだといつも思っていた。もし自分が一緒に歌えたら気持ち良いだろうなと。

彼女と島田は自然に親しくなった。誰も知り合いのいない教会で、最初島田が話せるのは彼女だけであったし、島田を皆に紹介したのも彼女であったから、彼女が島田と親しくするのは当然のように思えた。教会に通うメンバーとも徐々に仲良くなっていった。土曜夜の教会の後、皆に食事に誘われて行くこともある。彼女もそのメンバーの中にいたことも、島田と教会連中を近づける理由のひとつになった。

教会に通ってくる連中を、島田は弱い人間たちの集まりだとか、そういうイメージを持って捉えていたが、彼らと親しくなることでその認識を変えた。彼らはごく普通の若者たちで、強い者もいれば弱い者もいるし、今時の若者もいれば、垢抜けない者もいた。話す内容も、興味関心も世間の若者と大差がないように感じる。それでもやはり、周囲の若者との違いを感じることはある。食事の前に必ず祈ることや、時に信仰の話を熱く語ることなど表面的なことだけでなく、温かさや信念が人間にもたらす清廉な雰囲気を持つ者も何人かいるように思えた。

その中で清廉な雰囲気を感じる最たる者が、児童相談所の彼女であった。少年宅で彼女の祈る姿を見て以来、未だに近寄りがたい何かを島田に感じさせたが、彼女との会話で緊張することはなくなっていた。しかし、彼女の目で見射られると、自分の正体を見透かされているような気持ちになる。自分がパソコンの前で長時間の自慰をしている姿態まで彼女は知っているのではないかとさえ感じた。

教会に通う面々の中には意外な人物がいた。それは伊藤先輩だった。教会へ通いだして何度目かの時、島田はだいぶ遅れて部屋に入ってきた男に気がついた。始めの祈りも終わり、音楽も終わり、パスターの話を皆が静かに聞いている時に、その男は遠慮なくドアを開け、足音を立てて部屋を進み着席した。島田は男が着席したのを視界の後方で感じる。傲慢な野郎だなと思った。しかし、その教会は多国籍ということもあってか、教会に通う若者には、自由な、というより島田には無遠慮に感じられる行動を取る者が、とりわけ男の場合、少なくない。すでに何度かそういう若者も見ていたから、その時も島田は特段気にするわけでもなく若いパスターの話を聞いていた。パスターの話が終わり、祈りでそれを締めくくる際、なんとなく視線を動かした島田の目に、俯き目を伏せる伊藤先輩の姿が入った。なぜ彼がここにいるんだという驚きで、多少島田の頭は混乱し、途中から部屋に入ってきた男と伊藤先輩が同一人物だと島田が気づくまで時間がかかった。

「よお、島田」

締めくくりの祈りが終わって散会になると、先輩は自ら島田に近付いてきた。小さな部屋の中は教会終了後の談笑時間になっており、若者たちの明るい話し声や笑い声が部屋のあちこちで聞こえる。

「驚きました」

本当に意外そうな顔をして島田は応えたが、先輩は驚いたような素振りは見せず、ただニコニコ笑って島田を見ている。

近くにいた彼女が島田達に近付いてくると

「島田さんと伊藤さんは同じ警察署で働いてるんだもんね」と島田と先輩を交互に見ながら笑顔で言う。

「伊藤さんはね、ここの教会にもう何年も来てるの。最近はさぼることが多いけどね。ははは」

彼女はまず島田に向かい話し、さぼることが多いという段で、先輩の方を向いた。彼女は笑顔だったし、口調も冗談ぽく責めるようなものだったが、島田は彼女の目が笑っていないことを感じた。いくつか先輩と言葉を交わしたが、すぐに教会の連中が会話に入り、一緒に遅い夕飯を食べに行く事になったので、その時はそれきりだった。

その後も、教会で先輩と顔を合わすことはあったが、頻繁ではなかった。夏になり、夜勤日と重ならぬ限り、毎週教会に通うようになっていた島田であったが、彼女が言ったように、先輩は教会には時々しか顔をださなかったため、島田と教会で会う回数も多くはならなかった。無論、仕事では同じ係に所属し、同じ寮に住んでいることもあり、休みの日以外はほぼ毎日顔を合わせた。署内や寮内で、2人だけになると先輩のほうから、「今週も行くか?」などと話しかけられたが、実際教会で会っても、お互い近づいて行って会話することはなかった。毎日仕事や生活の場で顔を合わせる相手と教会でわざわざ話す必要性もないとお互い感じてのことなのかもしれぬが、それだけが会話のない理由ではないと、島田は感じていた。

夏の夜勤は冬ほど苦にならなかった。夜中の街を、犯罪者を求めて自転車で走る。
夜中になれば日中の暑さはなくなるが、蒸し暑さはまだ残る。水色、半袖の夏服制服が、汗を吸い込み青くなる。夜中2時の街は静かだ。 誰もいない街で、歩行者信号の水っぽい音だけが辺りに響く。湿度の高い熱い空気が、島田には心地良かった。
島田は重い警察自転車を理由もなく漕ぐ。全速力で、理由もなく、夜中の道を自転車でぶっ飛ばす。汗が噴出せば、深夜の膿が体から出ていくような気がした。
侵入盗が最近多発している地域を自転車で無暗に徘徊し、警戒するが、黒々した家々は犯罪とは無縁に眠っている。黒屋根の海原を、ひとり自転車で漕いでいく。生暖かい水が島田の顔にやたらとからみつき、島田の顔に脂と虫がへばりつく。黒くなった顔の中で、黒目が白目の中をぎょろぎょろ動く。疲れのせいか眠気のせいか血走る目はエキゾチックで黒い誰も知らぬ熱帯夜に、赤色を加えた。
腰に付けた無線機から、同僚達が自転車の防犯登録紹介をしている声が聞こえてくる。寝静まる深夜に、自転車盗をひたすら探す、忠実な警察官たち。頑張っているな、島田は思う。効果も分からんことに意味を見つけているのか。島田は、住宅街から抜け出し、甲州街道を目指し、自転車を漕いだ。甲州街道に出ると、国道を西に向けて、速度を緩めて走る。深夜3時の甲州街道には800mおきくらいに、制服姿の同僚地域警察官が立っていた。闇の中でほとんど通りもしない自転車を待つ警察官達。何を思って立っているのか。何を待っているのか。
同僚警察官を通り過ぎるたび、挨拶を交わす。島田の平坦な「お疲れ様です」に対し、笑顔で「おー!頑張ってるな!気をつけろよー」と国道を通り過ぎる島田を大きな声で見送る。人がいいのか、馬鹿なのか。島田は自転車を漕ぎつつ思う。
自分の受け持ち区域をゆうに超え、島田は甲州街道をさらに西に漕いだ。はるか前方に、わき道から甲州街道に出てきた自転車を島田は認め、「よし」と小さく声を出した。グッとペダルを踏み込むと、島田は全速力で加速し始めた。ぐんぐん前方自転車に近づいていく。前方自転車はゆっくりと蛇行運転をしており、容易に追いつけそうだった。わき道から甲州街道に出てきたところを見ると、待ち伏せをしていた同僚警察官達にはおそらく職質を受けていないだろう。
40mくらいまで近づいた時、その自転車男は後ろを振り向き、追いかけてくる島田に気が付いた。急に立ち漕ぎをはじめ、島田から全速力で逃げる。赤いタンクトップ、ハーフパンツ、茶色い長髪の若そうな男。逃がすか馬鹿野郎。警察自転車は普通の自転車に比べ重かったが、それでも島田は速かった。走りこんでいないチャラ男に負けるか馬鹿と、猛然と自転車を漕いだ。2分ほどの追跡の後、島田は追いついた。止まれと話しかけるまでもなく、若い自転車男は止まり、ぜえぜえと肩で息をついていた。
「なんで追いかけてくんだよ、てめえ」自転車を止めて、呼吸も苦しそうに、男は睨む。男の耳についたピアスが、車のライトを反射して光っていた。
「自転車の防犯登録紹介をさせてください」島田は自転車を降りて、静かに立ち、そう言う。

男がぶつぶつ文句を言う中、防犯登録紹介。その自転車は盗難車ではなく男の所有する自転車だった。 逃げたのが怪しかったので、所持品検査や犯歴照会をするも、何もなかった。男は島田を罵って、自転車で走り去っていった。

深夜の国道を走る車のヘッドライトが、歩道に一人残された島田の顔を、こがね色に光らせては暗くする。島田の無表情の目がどこかある一点を見つめる。全速力で自転車を漕いだ徒労を、男を追いかけた自分を、島田はなぜか好ましく思った。しばらく暗い歩道に立ったまま何事かを思っていたが、島田は自転車をそこに置いたまま走り出した。坂道を加速して登っていく。コンクリートの隙間から生える夏の雑草の強い匂いが鼻をつく。全速力で、意味もなく、膝を高くあげ、腕を振り、顎を引いて、走った。闇を切る幾つものヘッドライトの光線の中を、島田は全力で駆け上がった。島田は走った。

島田は走った。柔道の試合があるらしいと発表されて以来、日勤後の夜に、非番の夜に、休みの日に、暇ができれば署の近くにあるグランドに出かけていき、走り込んだ。100m、200m、400mを何本も、繰り返し走り込んだ。汗が玉となって島田の体に浮かぶ。川沿いにある喧騒から離れた、誰もいない土のトラックで、無暗に走る。走り込むのは警察学校を卒業して以来久しぶりだったから、走り込みを始めた当初はすぐにばてた。それでも、走り出せば体は慣れてくる。

夜、近くの暗い広々としたグランドを走り、空を見上げると星が見えた。東京の生ぬるい空気の向こうに夏の星がかすかに瞬いている。月がぼんやりと空気をにごす。全力で走り出せばいつも、島田の前や横に、学生時代のチームメイトが見えた。あたりは急に明るくなる。ぼんやりした月に代わって、夏のぎらぎらした太陽が現れる。夜の湿ったグランドは、乾燥して埃をあげるグランドに変わり、地面の陽炎がゆらゆらとゆれた。日焼けした島田のふくらはぎはパンパンに膨れ、使い古したスパイクは埃っぽいグランドを強く掻いた。

試合前のサイドラインで、横に並ぶごつごつしたチームメイトたちの目が青や赤に燃えているのを見て、島田は誇らしかった。おれにはこんなに逞しい仲間がいる。おれもねずみ男じゃない、そう思いたかった。そう思って、走った学生時代の夏が、都会の夜のグランドでいつも現れた。

目を瞑れば、チームメイトの笑顔が瞼に浮かぶ。坊主頭で日焼けした顔がいくつも笑う。つられて島田も笑う。

「この世に女はいないと思え」「いっさいモノは考えるな」

チームの誰かが何かの小説から引用して、唱えたこの文句を、島田は好んだ。集中して取り組めば、勝てる。相手にも、チームメイトにも、自分の弱さにも勝てると信じた。一生包茎のまま終わってたまるか。不得意な運動がいつか好きになって、いつか自分は強くなった、変わったとさえ思えた。

そう思えたあの夏に、今でもおれは縋っている。それが嫌で、夜の寂しいグランドでひとり黙々と島田は走り込んだ。辺りは暗くなり、東京の狭い空にちまちまと星が瞬いている。おれはもはやねずみ男じゃない。それなのに、なんで頭が小便くさい。島田は思う。ぼやけた月が、湿った土を焦げ茶色に暗く照らすグランドで、島田はシャツを脱いで絞ると、大量の汗がシャツから溢れ出し、流れ落ちた。

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