【警察小説・Kiss the Rain】第5話 春③

警察官小説(事件が起こる話ではない)

稽古後、部屋に戻りしばらく島田はうとうとすると、教会に向け昼過ぎに寮を出発した。4月の青い空に白い雲。暖かい、いや暑いような陽気に自然と気分は高揚した。近くのちょっとした街に出て、なんとなく一通り歩き回る。すれ違う女性に、美人やセクシーな人を探しては性的な視線を振り向いてまで送った。吐き気のする行動。いい加減歩き疲れ、島田は図書館に入った。静けさの中に、大勢の人のムッとする体臭が入り混じる。新品にも関わらず古く見える茶色の上着を着た中年の親父どもが何やら真剣な面持ちで本を物色したり、机に向かい神妙な顔で本を読んでいたりする。中にはノートを広げ、本を見つつ何かをノートに書き付けている臭そうな男までいる。若い奴らも女もいる。知的ぶった光景に島田は多少辟易し、何の本も手に取らずに、近くの腰掛に座った。島田が座った四人掛けのテーブルの、島田の対角線上に男が座っている。うだつのあがらぬ30歳代も後半と思しき包茎男。『成功する人の時間の使い方』なる本に、その目を落としている。そんな本を読んでいる時点で成功しない、島田は思う。中途半端な長さの髪を清潔になでつけ、青い格子模様のネルシャツの裾を時代遅れのズボンの中に几帳面に入れている。不器用そうな男の中に、貧しさと懸命さが見える。どこかの工場で単純作業にでも従事しているのだろうと島田は勝手に想像したりした。

 

――38歳男性、今日もベルトコンベアーの横に立つ。彼の仕事はコンベアを流れてくるケーキを箱に入れること。毎日ひたすら同じ作業を繰り返す。食品を扱う為、体は全て白の作業服で覆われ、目だけが冷たい作業室を覗く。作業室の中で目だけが動く。コンベアの5m前で作業する小柄な女の子を見ることが彼の毎日の楽しみ。昼休みに、工場の食堂でマスクを取った時に見えた彼女の顔が忘れられない。まだおれは感情を失っていない。

これからどうなるのか。ケーキを詰める我が手が寂しく彼に話し掛けてくる。学生時代頑張って勉強したが、どうにも要領が悪かった。辿り着いたのはこの菓子工場。次から次へと流れ来るケーキが、無意味なものに思えて仕方ない。このケーキが一体誰を幸せにしているのか。社会に過剰供給されるサービス。一見生活を豊かにするように思える社会に溢れ出るモノ、サービスは人間の幸福に結びついていない。

誰かおれを助けてくれ。作業用マスクで覆われた彼の声は届かない。巨大な世界の中で彼の声は聞こえない。5m先でひとりだけ振り返って彼に微笑んだ瞳があったように彼は思う。ケーキが、そして世界が留まることなく、彼を待たずにコンベアを流れてくる――

島田は思う。無様な人生を歩いている男。目の前の若いライン女に精子を出したくて堪らない男。おれと寸分違わない。

午後5時頃になって図書館を出る。日中の日差しは失われていたが、薄桃色の春の宵の暖かい風が島田の心を柑橘類の果物を絞るようにときめかせた。教会の住所に向かって、川沿いのサイクリングロードを自転車で走らせると、島田の顔にあたる川風が心地良かった。銀色のマウンテンバイクの車体と川面に、夕暮れ時の太陽が反射してきらきら光る。自転車のギアを上げ速度を速めると、川沿いの道がアメリカ西海岸の広々と続く海岸線のサイクリングロードであるような錯覚に島田は陥った。海岸からの春の潮風が島田をしてどこまでも自転車をこげるような気分にさせた。

彼女から聞いた住所に着いた頃には太陽は沈みかけていた。島田は教会と聞いて、鋭角の屋根のついた西洋風の建物を想像していたが、その建物は白色の正方形の大きな箱のような垢抜けないものだった。駐車場が広く、広々した通りに面し、建物は大きかった。

広々とした駐車場では、小学校低学年と思しき子供たちが、夕暮れの橙色の太陽にその頬を照らされ、5人くらいでキャッキャと楽しそうに追いかけあっている。どこからか音楽が聞こえる。島田はその視線をその子供らに向けたまま、多少の抵抗感を感じながら広い駐車場に自転車を進み入れた。子供らは、島田が駐車場に入ってきたことに気づいて、動きを止めて一斉に島田を見た。車のほとんど止まっていないガランとした駐車場に春の夕暮れの風が入る。島田を見て、子供達の表情が固まったのはほんの一瞬で、すぐに彼らは笑顔をその顔に戻した。

 

島田はやがて5‐6人ばかりの小さい子らに囲まれた。どの子もみんな半袖かノースリーブの夏のような恰好をしており、その肌はどれも褐色に日焼けしていた。彼らは島田のマウンテンバイクを、口を開けて眺め回すと、島田に向かい

「土曜教会に来たの??」

「おれと会ったことある?」

等と矢継ぎ早に質問してきた。1人だけ、恥ずかしそうにみんなの後ろでモジモジしている女の子もいる。随分下の方から島田を見上げる彼らの目はやけにキラキラしていて、夏の太陽を映す水面のように思えた。彼らの笑顔に島田も連られ、はにかんだ笑顔になった。春の暖かい風がなんだか懐かしいような気がした。子供達は島田の自転車を見て「かっこいいなー」等と小さな歓声を上げ、親しげに島田の手を握って引っ張ったりする。見知らぬところに来た島田の緊張はほとんど解け、広い駐車場の中で島田はすがすがしい気分だった。どことなく貧しそうな身なりの少年少女はすっかり島田を遊び仲間と捉え、汗ばんだ褐色の肌に白い歯を光らせて、島田に笑顔を振りまき、島田を笑顔にさせる。

「おまえら誰と話してるんだ」

若い男の声がうしろから聞こえて、島田は筋肉を固くした。振り向くと精悍で若い色白の男が離れたところで立っている。背は高くないが、色の白い、細いが筋肉質の体の男が、こちらを見ている。

「やあ、はじめまして。今日は教会に来てくれたの?」

男らしく、きれいな声だ。筋肉質で色白の体にぴったりの声だと島田は思った。きっとおれより若いだろう。敬語も使わずに話しかけられたが、なぜか不快に感じなかった。堂々とこちらの目をじっと見てくる。彫の深い強く大きな目だ。

「はじめまして。」

多少気おされながらも、島田は彼の目をまっすぐ見てゆっくりと答えた。負けてない。そんな風に相手を過剰に意識している自分が卑しく思えた。

案内すると言われて、島田は彼について、建物の外階段を上った。夕暮れの大きな太陽が、立方体の建物の白い壁を照らす。音楽が上の階から聞こえる。階段を上りながら、駐車場を見ると、子供達はさきほどと同じように追いかけあいをして駐車場を走り回っていた。

2階のドアを開けて中に入ると、音楽があふれ出した。アンプから流れる低い電子音が島田の鼓膜をくすぐったく震わす。キーボード、リードギター、ベース、ドラムの4人。ドラムを叩いていたのは、児童相談所の彼女だった。キーボードを真ん中に、かなりの音量で練習している。キーボードの男の他は皆若く、島田より3‐4歳ほど若く見えた。キーボードの男は30代半ばだろうか。演奏しているのは、聞いたこともない曲。何となく懐かしいようなメロディ。普通のバンドがやるような曲ではないように思えた。ドラムの音が心地良く曲を引き締めている。キーボードの男がリーダーなのか、時折何やら指示を出している。ギターの二人は俯き、体でリズムを取って、気持ちよさそうに演奏している。

ドラムのあの彼女は、新鮮な魚が跳び跳ねるように、体全体を使って四方八方のドラムをリズムよく叩いていた。黒のTシャツと茶色のズボンを穿いた少年のような服装の彼女の体から、しぶきが飛び散らんばかりの迫力だった。強く、それでいて力まず、リズムに乗って小気味良く彼女の体が動く。ドラムを叩く彼女の目は集中していて、島田は自分が来たことにこのまま気付いてくれるなと願った。

小学校の教室くらいの広さの部屋。内壁も白く、簡単なステージと、その前に長椅子がいくつも並んでいる。島田は部屋の入口に、でくの坊のように立ったまま演奏を黙って聞いていた。案内してくれたハンサムな男も、島田の横で、それが当然のように、演奏する4人の方をただ黙って無愛想に見ていた。キーボードとギターが作る電子音の水の中を、魚がドラムを叩いて泳ぎ、跳ねる。郷愁を誘うような音楽が島田の胸を弾いた。

どれくらいの時間が経っただろうか。やけに長い間演奏を入口に突っ立って聴いていたように思えた。キーボードの男が、島田達に気付いたが、演奏はやめずに、こちらに向かって顎を少し素早くあげた。挨拶なのだろう。彼女も顔を上げ、島田と目が合った。ちょっと驚いたように目を開いたが、すぐに口角が上がり白い歯が見え、笑顔が島田に送られた。島田はどぎまぎした。おれはあんたに会いにここへ来たんじゃない。教会に興味が元々あったから来たのだと、自分に言う。彼女の笑顔に、キーボードの男の動作に、どう応えるべきか分からず、島田は直立不動のまま、頷いただけのような小さいお辞儀を返した。

彼女はしばらく島田の方に笑顔を向けながらドラムを叩いていた。島田の顔は不器用に硬直したままだったが、彼女はいかにも嬉しそうな笑顔で島田を見ながら、手足だけはしなやかにドラムを打ち続けた。鞭を打つように手に持つバチが振られる。島田は彼女がドラムをやる等もちろん知らなかったし、少年宅で見た彼女のイメージとも違っていた。彼女が視線をドラムに戻すと、彼女の顔から笑顔が消える。俯いてドラムを叩く彼女の顔は青く冴えて、何か憂えて物悲しく見えた。リズム良くドラムが叩かれる。ドラムの低い音が、間近で聞く打ち上げ花火のように、次から次へと島田の心を打った。

それから、島田は教会に時々通うようになった。彼女を見ることが目的で教会へ行っているような気がして、後ろめたさを感じないことはなかったが、その理由が彼女に会うためだけではないと島田は嘘ではなく思っていた。島田はたしかに教会の何かに惹かれるものを感じていた。皆が歌う音楽に惹かれているのかもしれぬし、初めて行った日に見た子供たちの笑顔なのかもしれぬし、そこに集まる若者たちの雰囲気がそれなのかもしれぬ。なんだか分からぬが、教会からの帰り道、自転車で暗い夜の川沿いを走ると、なんとなく満ち足りたような、それでいて泣きたいような気持ちに決まってなるのであった。

とは言っても、仕事で教会に行けない週も多かったし、休みの日でも面倒になり行かないこともあった。何か劇的な変化が島田の生活に起こったわけでは勿論なかった。明らかな変化と言えば、マンガ喫茶での長時間かけた自慰の後に、彼女や教会の音楽を思い出してこれまで以上にひどい自己嫌悪に陥ることくらいだった。

もうひとつ小さな変化としては、島田が柔道の練習にこれまで以上に打ち込みだしたことだった。署内の柔剣道大会を夏季の署員精励イベントとしてじきに行うという話を聞いたからだ。総出で刈りだされる多くの若手職員は、面倒なことになったという不満と試合への軽い緊張を感じた。動物のオス同士が無用の闘いを避けるように、彼らの間では軽い緊張が持たれたが、それは発表があってほんの僅かの間のことで、数日もするとほとんどの若手署員は、どうせまだ何ヶ月か先のことだろうとすっかり忘れたようだった。

島田はひとりそれを強く意識し続けた。その署内大会がどういうイベントでいつ行われるのか、全員参加なのか選抜制なのか、個人選なのか団体戦なのか、トーナメントなのかリーグ戦なのか、何もわからぬ状態であったが、とにかく準備はしなければならぬとひとり考えた。小さなイベントのために、おそらく準備等と考えているものは署内に誰ひとりいないだろうと島田は思い、我ながら馬鹿げているとも思ったが、だからこそチャンスだとも思った。署内の朝稽古やウエイトトレーニングだけでは飽き足らず、勤務後や休みの日には短距離や中距離の走り込みも始めた。しばらくして、地域の柔道同好会に通いだして柔道を習いだしたりもした。

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