【警察小説・Kiss the Rain】第4話 春②

警察官小説(刑事モノではない)

その出来事があって、彼は教会に行ってみようかという気になった。教会などという場所には今まで一度も入ったことはなく、かんばしい具体的なイメージも島田にはなかった。自分とは相容れぬ清廉な場所かもしれぬし、はたまた偽善者、弱者、胡散臭い者どもの集まりかも知れぬと思った。ただ、島田にしてみれば、もう一度かの女性に会えると考えるのは心躍ることであった。

しかし、彼女に会いたいという動機で教会に行くことに後ろめたさもあり、島田はしばらく行くべきか行かざるべきかと考えた。教会を神聖な場所と考える故ではない。いるのかいないかは別にして、神に対して失礼だと考えるからでもない。教会に通う真摯な人たちが少しでもいるのならば、その人たちに失礼だと考えるためであった。

後ろめたいとは言っても、社会人になって以来、インターネットカフェでの長時間の自慰か一人でできる運動くらいしか休日の過ごし方がない島田にとって、教会へ行って彼女にもう一度会えるかもしれぬと想像することは、自慰で汚れた島田の心をやましくも明るくした。

 

4月半ば、土曜日が休日と重なる日を待って、島田は結局教会へ出掛けることにした。島田が誘われたのは、土曜の夜の教会であった。教会の礼拝は日曜とばかり頭にあったが、彼女の通う教会では土曜夜にも時間を設けているとのことであった。

その日、島田は朝早く起きると、強くもならぬ柔道の練習に懲りずに精をだし、汗を流すことにした。続く夜勤でむくんだ顔を引き締めるためにも、体を一回り大きく見せるためにも、吐き気のする自分の心を洗うためにも、朝の訓練に顔を出すのはその日教会に行くにあたって、必要不可欠な行動であると思えた。

島田は柔道を警察官になってから始めた。警察の仕事には疑問や不満ばかり浮かぶ島田だったが、柔道は好きになった。自己の体格に勝る大きい相手を投げた時の快感もさることながら、自己を鍛え、自分が強くなっていると実感できることを島田はひとり好んだ。

とは言っても、島田の柔道は決して強くなかった。むしろ弱いと言った方が適切であったかもしれぬ。島田は体格が良いわけでもなく、運動が元々得意というわけでもなかった。比較的体格が大きく、運動が得意な者が多い警察官達の中で、島田が連戦連勝できる様子はなかった。それでも、相手が柔道経験者でなければ、もしくは体格に非常に恵まれた相手でなければ、島田はかなりの割合で勝つことができるようになっていた。

その理由は2つある。1つは、島田が練習に励んだこと。大抵の者が面倒がって嫌がる毎朝の稽古に島田はひとり通った。皆、配属されて数年もすると、朝の稽古には、自分の日勤勤務の朝にしか出ない。つまり、新人警察官でも、署に配属されて一年も経てば、平均して4日に一度程度くらいしか稽古には出なくなる。さらに何年か経つと、その4日に1度の稽古にもほとんど出なくなる者が多い。そんな中、署に配属されて何年か経つ島田であったが、夜勤明けの朝を除いてほとんど稽古に出席した。そんな島田を皆は奇異の目で見た。大して強くもないのに、非番を除いて毎日稽古に出ている物好きがいる。飲み会などにはあまり参加しない島田は、他の係にはほとんど仲の良い者がいなかったことも手伝って、島田の行動はさらに奇異なものに見えた。

 

もうひとつの理由は、島田の基礎体力にあった。単純に走るだとか跳ぶだとか持久力だとか、その辺りの島田の能力は、署員の中ではトップクラスだった。運動が元々得意ではなかった島田の思春期は惨めなものだったが、その克服のために島田はこれまで汗をかいてきた。二十歳を過ぎた頃、当時取りんでいた競技のために、日々の練習に加えてウエイトトレーニングに取り組んだので、島田の体は劇的に変化した。貧弱だった体に逞しい筋肉が付き、顔つきまでも変わった。警察学校時代には、その運動能力によって教場の皆に一目置かれる程になっていた。他の男達と比較してあまりにも遅い成長だった。

 

それでもやはり島田は負けた。警察学校で柔道を始めた頃は特にひどいものだった。その運動能力によって、教場対抗戦の柔道選手のひとりに自ずと選ばれたが、皆の期待と裏腹に試合開始5秒で足払いをかけられ、いとも簡単に倒された。同教場の連中と組手をしても、強い者には簡単に負けたし、そうでなくても引き分けに持っていくのがやっとだった。島田の運動能力と比較して、教場の同僚はそんな島田の柔道の弱さを不思議がったが、島田にとっては何の不思議もなかった。自分の運動能力が天然のものでないことは知っていた。やはり自分は強くないとただ静かにひとり哀しんだ。だが、きちんと取り組めばある程度まで強くなれるのは分かっている、他の運動と一緒だ。島田は自分に言い聞かせ、負ける惨めさを慰めた。

 

しかし、島田が自分に言い聞かせたように、年月が経つごとに、島田はゆっくりと強くなっていった。先に述べたように、相手が柔道経験者でなければ、もしくは体格に非常に恵まれた相手でなければ、島田はかなりの割合で勝つことができるようになっていた。

 

その日の稽古では、まず一人を寝技で抑えた。体を動かすごとに心の靄が払われていく。気持ちが良い。鍛えた筋肉が漲っていく。流れる汗が島田の表情を凛々しくする。組手が始まると島田は続けざまに2人を背負いで何度か投げた。体格に恵まれぬ島田の得意技は背負いだった。島田が背負いを狙いに来ることは、稽古に出席している連中の知るところだったので、背負いが決まらないこともあったが、島田は熱心な研究により対戦相手それぞれの癖を覚え、背負いが決まるタイミングを組手の相手ごとに体で覚えていた。

学生時代培った俊敏な身のこなしで相手の懐に入り素早く相手を投げる。背負いのモーションの中で、島田の体は渦を巻いて素早く回転し、体を離れた汗が畳に飛び散った。その汗には一遍の不潔さもない。視界が無くなり、相手の体重が急に感じられなくなると、その時相手は宙に浮いている。バーンという良い音がして、相手を畳にたたきつけると、その瞬間なんとも言い知れぬ快感を味わった。畳にひっくり返る相手を見下ろす島田の胸で玉のような汗が何粒も光り、島田の目は青く燃えた。

 

その日の組手、3人目の相手は先日万引き中年を怒鳴った伊藤という先輩だった。先輩は学生時代の柔道経験者で、体格もかなり良く、柔道特錬という、署内の柔道選手としても選ばれていたこともあった。先輩は島田と同じ地域2係に所属していることもあって、稽古で一緒に練習する機会も多かったが、島田は一度も先輩を投げたことがなかった。組手や練習試合では、いつも奥襟を余裕の動作でゆっくりと掴まれ、そして緩慢な動作で島田の抵抗をものともせず彼を軽々投げ飛ばした。奥襟を掴まれてから畳に仰向けになるまでの間、島田は自分の足が地に着かずふらふら浮いているような、熊に狩られるウサギにでもなったような気分をいつも味わった。

 

伊藤先輩と組手をするのは久しぶりだった。その日、島田の係は休みの日であったし、そもそも最近の先輩は、日勤勤務の日でも滅多に朝練に顔を出さないようになっていた。学生柔道の経験者であり、署の柔道選手にも選ばれていた先輩にとって、警察官になって柔道を始めた素人連中との稽古はくだらぬものなのかもしれぬ、島田はそう考えていた。久々に組む先輩との組手で、島田は自分のここ最近の上達具合を測れるかもしれぬと思いつつ、こころ密かに闘志を燃やして向かっていった。幾多の汗を吸い込んだ畳を親指の付け根でしっかりと踏みしめる。周囲で組手をする連中の声が耳に緊張をもたらす。汗臭い匂いと熱気の中で、島田の体はさらに汗を噴いた。先輩はかかってこいと言わんばかりに余裕の表情で待ち構えている。その表情を見て、島田の頭は熱くなった。奥襟を取られぬように気にしながら、じりじりと島田は距離を詰めていった。しかし、自分の道着を掴ませぬよう、ある一定の距離で島田は間合いを詰めるのを止めた。足の進みを止めて下から相手を窺う目は静かに燃えている。相手は、一向に距離を詰めず組ませない島田に段々と苛立ちを感じているようだった。

「おら、島田どうした、来いよ。びびんなよ。ちゃんと組もうぜ。おら。」

先輩はしびれを切らして挑発してくる。その言葉に島田は応えず、ただ黙って、背丈も体も一回り自分より大きい相手の目を見ていた。ややもするとその表情は、不敵な笑いを浮かべて自分を挑発してくるものだと、その先輩には伝わったかもしれぬ。しばらくして、先輩の男性的な顔が興奮のためか赤くなっていくのを島田は認めた。相手の大きな足が畳を強く踏みしめたのを島田は畳から体へ伝わる振動で感じた。その瞬間、ヒグマが獲物に襲いかかるように、相手は勢いをつけ右足を前に大きく踏み込み、間合いを詰めにかかった。間合いをつめると同時に、先輩の太い腕が島田の左目の上方から空を切って伸びてくる。駆け出さんばかりに間合いを詰める相手の足が島田に近づき、島田の左奥襟を狙うその腕が空を切る音を立てたその時だった。島田は背負いを狙いそれを待っていた。襲いかかる相手の右袖を左手で素早く掴むと、首を反対側にひねり、腰を思い切り良く回転させた。相手に対して背を向ける体制に入る。島田は膝を大きく曲げ、腰を落とす。つま先立ちの両親指に全体重がかかる。島田の目はカッと開かれ、右肘を相手の脇にがっちり食い込ませた。行ける、もらった、島田は思った。相手の両足はそろって一瞬宙に浮き、島田の腰に相手の体が乗った。

しかし、そこまでだった。先輩は島田が背負いの体制に入るのを直前で気づき、体を後ろに引き腰を落としたのだった。すんでのところで、島田の背負いに持っていかれなかった。島田は背負いの体制で相手を投げ出せず、反対側を向いて先輩を後背部に付けたまま、動きが止まってしまった。どっしりと重い先輩の体を自分の背後に感じる。あぁ、惜しかった・・そう思って前方を振り向いてからはもう何もできず、防戦一方だった。

先輩は、以前には無かった島田の背負いのキレに一瞬驚いた表情を見せた。自分が素人に、しかも体格でかなり下回る相手に窮地に立たされたことからくる屈辱感からその表情を変えた。大きな目で島田を睨み、抵抗する島田の手を払って奥襟をむんずと掴むと、後は熊のようだった。太い腕に奥襟を掴まれ、勢い良く相手の胸に島田の顔は叩きつけられた。首根っこを掴まれて、前後に揺さぶられているように思えた。島田は相手の体から離れようと必死にもがいたが、相手の腕、体はびくともせず、壁のような厚い胸板から顔を引き離せなかった。もがく島田は、羽をつかまれた蜻蛉のように体をびくつかせるだけだった。両目は先輩の柔道着に押し付けられ、島田の視界は暗い。先輩の道着に暗闇の中で頬が擦られて痛い。先輩の分厚い胸板から出る汗が湯気を立てるのが暗い視界の中で感じられる。島田の体は完全に先輩の胸板の前で固定され、身動きできなかった。島田の頭の上で吐かれる先輩の息が煙草くさくて嫌だと思った瞬間、島田の体は急に軽くなり、ドーンという大きな音を立てて畳に叩きつけられた。受身を取る体勢もとれずに、投げられたのだが、痛みは感じなかった。やられた・・・。島田を投げたはずみで相手の体が島田の体の上にのしかかった。先輩は島田の体を手で畳に押し付けて立ち上がると、まだ畳の上に倒れている島田を、上から見据えた。「おれがお前みたいなやろうに負けるわけがない」威圧と侮蔑の混じった視線がそう言っているように島田には見えた。

畳に体をつけたまま先輩を見上げると、正座をしながらおずおずと見上げた弱いヤンキーの顔が先輩の顔に重なる。小便のアンモニア臭がつーんと鼻につき、暗い夏の公園で小柄なヤンキーの小さな陰茎の先から噴水のように小便が自分をめがけて飛んでくるのがスローモーションで見える。おれはあの時と少しも変わっていない。島田は立ち上がり、もう一度組み手の体勢をよろよろと整えたが、そこで先生から組手止めの合図がかかり島田は何に対してかは分からぬが急いで目を背けた。

稽古が終わると練習に出た者達は道場内の風呂場で汗を流す。稽古前に新人らが掃除する風呂だ。後輩が風呂の掃除をするので、島田は敢えて風呂の掃除をしなくても良いのだったが、今でも新人に混じって風呂の掃除を練習前にしていた。稽古後、島田が風呂場で汗を流していると、伊藤先輩が後輩達と楽しそうに会話していた。先輩は他の係にも顔が広く、いろんな後輩をしばしば引き連れていた。他係にほとんど話す者がいない島田への何かのあてつけのような気分さえする。洗い場でひとり体を洗っていた島田は、風呂桶に僅かな間浸かって風呂場を出ようとする先輩と目があった。何も言わず先輩は島田の横を、上から島田を見下ろして、大股で通り過ぎていった。頭を流そうと目を瞑ると、目の前を通り過ぎていった先輩の長く張りのある陰茎がいつまでも瞼の後ろにこびりついて離れなかった。

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