【警察小説・Kiss the Rain】第3話 春①

警察官小説(刑事モノではない)

《 春 》

早春の、暖かな陽気のある日勤勤務の日、島田が交番で出前物の昼飯を食べていると、1‐2年ばかり先輩の若い警察官に話しかけられた。

「島田はよくいつも一人で警らしてるよな。今日の午後、たまには一緒に外に出ないか?」

一緒に警察自転車で外を回ろうという誘いだった。110番の現場臨場は、原則複数対応と決まっているものの、警らについては特に決まりはなかったので、島田は大抵ひとりで行動していた。別に気取って一人でいたわけじゃない。同僚とも愛想良く接したし、頻繁ではないが飲みにいったりすることもあった。警らを単独でやっていたのは、ひとりの方が単に気が楽で疲れないからだけのことであった。

「そうですね。一緒にいきましょう。」

その若く逞しい体の先輩を嫌いではなかったし、島田は笑顔でそう答えた。自転車で受け持ち管内を回りながら、伊藤という名の先輩は、仕事のこと、自分の婚約者のこと、将来のこと取り留めもなく話していた。島田はもっぱら聞き役に回っていた。何のことはない将来を幸せそうに夢見て語る先輩を見て、こういう風に素直に人生を愛せたら自分も楽だろうと考えた。聞いてばかりの島田に先輩は問いかけた。

「島田は、警察人生、どうしたいと思ってる?」

警察人生・・・吐き気のする言葉だ。夢も希望もあったもんじゃない。八方塞がりだ。

「僕ですか。僕は特に今はまだ希望とかないですね。」

島田は笑顔で答える。

「そうかあ。勿体ねえなぁ。島田なんてよ、頭もいいし、仕事もできるし、昇任試験だって一発合格なんじゃないのか。大学だっていいとこ出てるんだろ。ただな、あとは人付き合いだな。はっはは」

伊藤先輩は楽しそうに言った。

「そんなに付き合い悪いですかね。」

「いや、付き合いがすごく悪いわけじゃないんだよ。礼儀正しいし、きちんとしてるし、無愛想ってわけでもないし、二係のみんなもお前のこと嫌いじゃないし。むしろ好かれてるんじゃないか。得な奴だよ、お前は。」

先輩は続けて言う。

「でもよ、なんかさ、島田ってさ、心ここにあらずっていうの?笑ってても、笑ってないような。感情がないとまで言ったら失礼か。まあそんな気がするな。」

 

なるほど、そんな風に見えているんだな。おれも随分変わったもんだ。島田は思った。先輩に言われたことは別に不快ではなかった。むしろ好ましく思えた。ただ、もし自分が傲慢な印象を与えているようなら、それは恥ずかしいと思った。内心で、無意識の内にも、島田は同僚の多くを馬鹿にしているように、自分で感じていたし、おれはこんなところで終わりたくないと考えている自分を、十分自覚していた。

 

先輩との警ら中、万引きの110番が入り、島田とその先輩警察官は現場に向かった。110番は、中年男性の万引き。駅前商店街の小さなスーパーで、42歳の男性が食料など1500円程を自分のリュックに入れ、店を出ようとしたところを万引き警戒中の店員に捕まったとの内容だった。まだ肌寒い昼間の商店街の人ごみを警察自転車で通りぬけ、スーパーに着く。野菜の匂いが立ち込める陰気なスーパーの売り場を通り過ぎると、生気のない店員達が店に入ってきた警察官達に気づき、一瞬だけ興味深そうに島田達を見て、すぐまた生気のない目で元の作業に戻る。店内の空気はひどく冷たい。2階の従業員控室に案内されると、旧型のパソコンと古びた茶色の長机を置いただけの部屋に、何人かの男たちが座っていた。店長と名乗る男が、待っていましたと島田達に近づけば、さっきまで店長と話していた別の男がさらにうなだれるのが見えた。その万引き男性は、薄汚れたトレーナーによれよれのジーンズを穿いて、さび付いた細いパイプ椅子に背中を丸めて座っていた。白髪交じりの黒髪は、頭皮からの脂のせいかべたついている。ジーンズの裾は、汚れて擦り切れていた。肩のまわりにはフケみたいな白いものが無数に落ちている。

「すみませんでした・・」

島田たちが話しかける前、席にも着く前に、男は小さな声でそう言った。顔を上げてそう言ったものの、目線はどこかちぐはぐなところを見ている。額に刻まれる皺が物悲しい。

「だからぁ・・何度も言ってるだろ。謝ればいいってもんじゃないんだよ、あんた」

万引き男よりも多少若いと思われるやや肥満気味の店長が、男に言う。

「おじさん、見りゃあ分かると思うけどさ、警察の人に来てもらったわけ。きちんと今から話してよ。わかった?」

店長は元々血色がよさそうな顔を、興奮してか、さらに赤く膨らませて言葉を重ねた。

 

島田達は万引き中年男性を取り囲むように座った。先輩が、住所、氏名、生年月日などを中年男に聞いていると、男はすっかり恐縮しきって柳のようにますます丸く項垂れていく。万引き男は、腹が減っていて、どうしても弁当が欲しくなってしまったこと、弁当をカバンにこっそり入れられたので、つい他の物まで盗ってしまったことを、蚊の鳴くような声で話した。申し訳なさそうにする男の姿を見て、先輩は優しくなるどころか、どんどん攻撃的になっていった。先輩は言う。

「お前なあ、自分がやったこと、分かってるのか、おい。泥棒だぞ、ああ?」

分かってるから、そんなに体丸くしてんだろ・・・島田は思う。

「てめー、人の話聞いてんのか、おい。黙ってちゃわかんねーんだよ。お前みたいのがいたら、社会は迷惑なんだよ。」先輩が男を詰問するのを、店長は満足そうに、鼻息を荒くして横で見つめていた。

島田は、攻撃的に中年男を責めたてる先輩を無表情に眺めていた。さっきまで穏やかな口調で自分と何気ない会話をしていたこの若い警察官。結婚を約束した相手がいると聞いているが、休みの日は同僚達と飲んだ後、風俗店に出かけていくこともあるという。高校生の頃は、なかなか悪かった等と噂で聞いたこともある。万引きの1回くらいしたこともあるのではないか。そういう男が今、自分より大分年上のうだつの上がらない男を侮辱するような言葉で責めている。

警察の役割としてやらねばならぬのかもしれないが、おれにはできない。したくない。おれはそんな完全な人間じゃない。そもそも、年上の人間に、そんな口調で話すことすら抵抗を感じる。島田は思ったが、ただ黙って終始見ていた。

 

万引き対応が終わると、島田はどこか釈然としない気持ちを抱えて警察自転車を行くあてもなく漕いだ。先輩とは理由をつけて別れ、ひとり自転車を漕いだ。ひとりになりたかった。犯罪者を怒れない自分。自分が責められたくないから、他人も責めないのか。おれは逃げているのか。犯罪者に同情するふりをして、自分を守ろうとしているのか。

 

あたりは夕暮れを通り越し、暗くなりかけてきた。4月も近い頃であったが、夜が来るのは早かった。島田の自転車は何とはなしに、先日訪問した少年宅に向いていた。おれは少年を助けてやろうなんて思っていない。ただ、様子を見に行くだけだ、興味本位であのネズミ一家を覗きにいくようなもんだ。しなくても良い言い訳を島田は自分に対して行い、重い自転車を漕いだ。

鬱蒼と茂る木々を抜け、閉鎖された病院のように暗い雰囲気で立つ都営住宅が見える。数ある都営住宅の中でも、かなり暗い雰囲気を持つ団地だと島田はかねてより思っていた。暗い道路を薄暗い街灯がさらに暗くする。少年宅でチャイムを押すと、玄関先に母親が出てきた。島田の突然の訪問に母親は驚いた様子であったが、すぐにありがたそうにお辞儀をして島田を中に入れた。玄関内には家族3人の古びた靴が脱ぎ散らかしてある。その中に、きちんと揃えられて置かれている女性用の靴に島田は気づいた。

「もしかして、どなたか来客中ですか」

「はい。実は息子のことで相談所の方が見えてるんです。」

母が相談所の方と言ったのは、児童相談所の職員のことであった。息子のことで半年ほど前から相談しており、時々こうして少年宅を訪問してもらっているとのことだった。実は先日の夜、110番したのも、夜中にどうしようもなくなったら警察を呼ぶようにと、児童相談所の職員に言われたからとのことだった。

 

なるほど、そういう専門の人がこの家に入っているのならば自分は不要であるし、島田は帰ろうと思った。素人の分際で、少年に関して知った顔をしてのこのこ出かけて来た自分を恥ずかしいと感じた。そもそも今日の訪問だって何の目的もない。常日頃、上司には民事不介入、こういうケースは警察の仕事じゃない、長く関わる必要はないと島田は言われているのであった。

島田は母親に来客中であるならば、帰ると告げたが、母親はぜひ寄って息子の顔を見てほしいと島田を引き留めた。幾分かの躊躇が島田の心をよぎったが、ぜひにと縋る母によって、わずかの時間の滞在を決めた。

「では少しだけ。顔だけ見させて頂きます。」

島田がそう言うと、母親は人懐こい笑顔を見せて、若い警察官に腰まで折るお辞儀をした。島田は申し訳ない気持ちになった。警察の制服を着ているだけの、何の用もなく訪問した男に、深々と頭を下げる母親。好色ネズミ女の印象はそこにはなく、息子をただ心配する母親の哀しい猫背があるばかりだった。

母に案内されて、2Kの狭く暗い室内を移動する。古く汚れた室内に、モノがところ狭しと置かれている。島田の肩に空箱が当たって軽い音を立てて床に落ちる。6畳の部屋は母と娘が、3畳程の小さな部屋は少年が使っているようだった。少年の部屋とは言っても、実質物置程度のスペースしかない。その部屋から女性の話し声が聞こえた。

母親の案内で、その部屋に続く、醤油で煮込んだようなシミだらけの襖を開ける。汚れた洗濯物が散乱する畳の真ん中に、2人は座っていた。しわしわに干からびた洗濯物が、若い男の腋の匂いを放つ。俯いて眼を瞑り座る少年の肩の後ろに、女性の片手が触れるか触れぬか分からない程軽く置かれている。少年とは向かい合わず、その女性は少年の斜め後ろに座り、少年と同じ方向を向いて座っている。少年と同じように、その女性も軽く俯いて目を閉じ、何か話しかけている様子だった。女性のもう一方の手は、足を揃えて座る膝の上に置き、何かを受けるかのように手のひらを上向かせている。透き通るような白い指が長い。

 

その不可解な光景を、島田は、襖を開ける母親の肩越しに見た。ごみ置き場のような薄茶色の部屋に、目を瞑り座る人間が2人。なぜかは分からぬが、島田は見てはいけぬものを盗み見たかのように思え、母親の白髪交じりの頭の後ろで、部屋にも入れず立ちすくんでいた。2人は襖が開けられたのにも気付いていない様子で、目を瞑ったまま座っている。女性がなにやら呟いている。

 

その言葉は、祈りだった。人が真剣に祈っている場面を、島田はおよそ見たことがなかったが、自分の目の前にある行為が祈りであると、島田は感じた。小さな声で若いその女性が呟いている。

「・・・・・・彼は今、悩み苦しんでいます。私にはなぜ彼がこれほど深い悩みの中にいるのかは、正直分かりません。ただ、彼が優しい心の持ち主だということは分かります。どうか彼のこころから、憎しみ、悲しみ、怒りを今すぐ取り除いてください。あなたの大きな力で彼のこころにやすらぎ、優しさ、感謝をお与えください。このことを主の御名によって祈ります。エイメン」

 

その祈りは、清潔で純粋だった。薄暗く、汚く狭い和室の中で、2人が座る場所だけにスポットライトが当たっているかのように、そこだけが明るく暖かいように島田には思えた。少年の肩に置かれた女性の白い手は、何かそこから暖かいものが少年の体の中に流れ入るような、何とも不思議なものに見えた。天を向く女性のもう一方の手の平は、宇宙から何か特別な力でも吸収しているかのように見えた。少年はうつむいて、自身の背中から入り込むその祈りを、静かに受け入れていた。

 

2人が襖を開けて立つ島田と母に気づいたのは、彼女が言葉を言い終え、目を開けた時だった。制服姿の島田に気づいた彼女は、軽い驚きと共に、一瞬決まりが悪いような表情を見せた。母親は何も気にしていないのか、何事もなかったように島田を彼女に紹介した。

「あなたが島田さんですか。この前夜中にここへ来てくれたんですよね。ありがとうございました。」

彼女は立ち上がり、親しげな笑顔を島田に向けてそう言った。

「はい・・、いえ、別に・・」

島田は襖の前に立ちすくんだまま、返事にならぬ回答をした。彼女の白い肌が島田の眼前に眩しい。上半身の汗腺全てから、暑くもないのに汗が噴き出す。

母親に部屋に入るように促されているのにも気付かず、部屋の前に立ちすくんだまま、どういう態度をとったら良いのか、何を口に出したら良いのか分からず、ただ無表情に能面のような顔で少年の部屋の隅を見つめた。

 

それから二、三十分程、少年の狭く暗い部屋にいただろうか。通り一遍の自己紹介を彼女と交わした後、島田は終始、無表情、ややもすれば不機嫌そうな顔で、ほとんど言葉を発せず、あらぬ方向に視線を合わせただ座っていた。少年とも彼女とも何言か言葉を交わしたが、いずれもひどく緊張した固い表情で、短い言葉を発しただけだった。緊張した表情で彼女と接するのを少年に見られ、ひどく恥ずかしい思いがし、汗が出た。また、少年と話す時、視界の横で彼女が笑顔で自分を見ていることに島田は気付き、さらに汗が出た。自分が少年の時間を妨害しているような思いにも駆られた。

 

島田は俯いて、散乱する少年の洗濯物の間に、ミミズのようにくねる少年の陰毛を畳の上に認め、それを見続けた。そのすぐ横で、彼女は少年と楽しそうに話をして、2人は時々声を立てて笑っている。彼女や少年がこちらに笑いの同意を求めるように振り返った際には、2人が何を話しているのかも頭に全く入っていないのに、引きつった表情の固い作り笑いを浮かべたりした。陰毛注視の合間に、ふと盗み見る彼女の姿は、清楚だった。

彼女の黒く細い髪は光沢を持ち、長くまっすぐに肩まで伸びている。その髪は、小さな菫模様が入った真っ白のブラウスに滝のように落ちている。腰のゆるやかなカーブから、きれいに揃えられた脚が人魚のように流れ出ていた。

 

彼女が今日はそろそろお暇しますと言った時、島田は解放された気分になった。と同時に、なぜか残念な気持ちにもなった。ひどく決まりの悪い時間であったにも関わらず、そんな気持ちになった自分を島田は不思議に思った。彼女と同時に家を出るのも不自然に思えたので、島田は少し残って少年と話そうかと思ったが、なんとなくそういう雰囲気ではなかったので、島田も勢い一緒に家を出ることになった。

 

家を出ると、もう夜だった。都営住宅の薄暗い踊り場で、島田は彼女と少し話した。オレンジ色の街灯に半分だけ照らされる彼女の笑顔はいつか修学旅行で見たことのある阿弥陀如来を思い出す。その時島田ははじめて彼女の顔を直視できた。

改めて自己紹介をし合い、島田は自分の固さに嫌気がさした。その場を早く離れて一人になりたいような、彼女と長く話したいような矛盾した気持ちになる。

「さっき、私が祈ってるの見られちゃいましたよね?」彼女ははにかんだ笑顔で言う。

「あぁ・・はい。」

「あれは、児童相談所の職員としてはあまり良くないかもしれないので、見なかったことにしてくださいね。ははは」

何がおもしろいのか、ずいぶん楽しそうに彼女は言った。何も反応のない島田をどう思っているのか、彼女は続けて言う。

「私、クリスチャンなんです。でも別に彼にクリスチャンになれとか強制なんてしてないですよ。ただ、彼のために祈りたかっただけで・・」

彼女の顔から笑顔が消えて、一瞬哀しそうな表情になった。

「いや、特に誰にも言いません、僕は・・」

「良かった。ありがとうございます。別にやましいことしてるわけじゃないんですけどね。」

そう言って彼女はまた微笑むと、少年をまたよろしくお願いしますと深々と頭を下げ、では帰りますと言った。都営住宅の自転車置き場で、別れ際に、もし良かったら自分の通う教会に一度来てみませんか、初対面の方に言うことではないかもしれないけど・・彼女は遠慮がちに島田に告げて去って言った。オレンジ色の街灯が照らす闇の中に消えていくその後ろ姿に、島田はいつまでも惹かれる思いで、彼女の姿が吸い込まれていった草木の茂る暗がりを呆けたように見ていた。揺れる彼女の黒髪が、春の宵にふさわしい、甘く爽やかな匂いを、そこに残していた。

ひとりの暗い帰り道、自転車を漕ぎながら「おれは馬鹿だ」と何が馬鹿なのか自分でもよく分からぬまま、何度も島田は声に出して繰り返し、自転車で闇を切った。

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