【警察小説・Kiss the Rain】第2話 冬②

警察官小説(刑事モノではない)

次の日の夜、以前見つかった盗難自転車を被害者に返すために、照明の行き届かない暗い六畳一間の古いアパートを訪問した。玄関から入ると、古い畳と夕食の残り物の匂いが混じって鼻をつく。今時ランプでも使っているかのように部屋は暗いオレンジ色。農民顔の体格の小さい親父が顔に皺を寄せて笑顔を作った。「警察の方ですね、どうもおつかれさまです。」俺なんかにそんなに頭をさげないでくれ。俺はただのぺーぺーだ。書類にサインしてもらうために中に入ると、家の中には、痩せて背の小さい皺だらけの親父が一生懸命守ってきた女どもがおびえたような目で島田を見て「ありがとうございます。ご苦労様です。」と頭をさげ、固い笑顔を作る。湿った臭いのする六人家族が蠢いているこの狭い部屋。年頃娘の古ぼけて褪せた色の部屋着が哀しく匂う。暗い照明の下でメシを食い、笑い泣き、セックスをして子育てをしてきたこの家族。小さな部屋で、照明の暗い、湿ってところどころ醤油のシミのようなある布団の上で、汗をかいた親父の幅狭い背中が、汗をかいた皺だらけの女房の顔が、幸せとも快感をこらえるとも言えない二つの顔がセックスをしているのが脳裏に浮かぶ。幸せか不幸かそんなことは知らん。同じ管内の裕福な家を思うとなぜかやりきれない。

 

 自転車の還付が終わると今夜も自転車の防犯登録照会。自転車窃盗犯と自転車の占有物離脱横領犯をひたすら探す。時計は夜中の2時を回って、島田は甲州街道に出た。車通りの疎らになった甲州街道はやたらと車道が広く感じられる。警察自転車を降りて、甲州街道の歩道に立つ。ここでいつも、夜中の自転車を待ち、防犯登録照会をしていた。歩行者や自転車なんてほとんど通らない。冬の白く凍った空気が、防寒コートの上から体を突き刺してくる。コートと制服の下に何枚も重ね着をしているが、関係ない。寒くて、眠くて何も考えたくない。希に、酔っ払いのサラリーマンなどが、闇の中からふらふら自転車を漕いでくる。学生やバイト帰りもくる。防犯登録照会を頼むと、奴らはあからさまに迷惑そうな顔をするが、それも仕事だ。夜中は検挙できることも多く、島田も何度も検挙していた。無線で署を呼び出し、防犯登録照会をする。外に警らに出て、仕事をしていることを署にアピール。くだらねえ人間だ。

 

その晩、変死の110番通報があった。その日の変死は自殺だった。変死の110番はよくあることで、大抵、1人世帯の病死か自殺だった。自殺死体を運ぶ仕事は好きではなかったが、避けてはならぬと島田は思う。変死の110番を聞くたびに自分の受け持ち管内でないことを密かに願ったが、一度変死事案を扱いだすと不思議と気分が高揚した。その日はアパートの部屋で練炭自殺をした20代後半の男だった。風呂桶の中で小さく丸くなり、少し張られた水の中で体はふやけ膨張していた。自殺死体と向き合う。目は焦点が定まらず、両方の目が別々の方向を向いていた。鼻血が流れ、顔も腫上がり、死んでいる。死んでいる。痩せた気の弱そうな男。どんな人生を生きてきたのか、何を考えていたのか。死体は重く、感情がなかった。ただのモノ。死体を扱った制服が臭く感じ、自分が汚れたように感じ、何度も石鹸で手を洗った。アパートの管理人は迷惑そうに部屋の入り口で立っている。自己中な世の中、自殺して迷惑掛ける奴、自殺されて迷惑がる管理人、汚いものを扱うように死体を運ぶ自分。どいつもこいつも自己中だ。そしてそれが自然なことだ。

 

休日のある夜、島田は新宿へ出た。込み合う駅の中、行きかう人達と何度もぶつかりそうになって、その度島田は慌てて道を開ける。携帯を見ながら歩く男、友人と横並びになって話す女、『共生社会のための経済システム』なる本を片手に急ぎ足で歩く会社員。どいつもこいつも、島田が道を譲ったことにすら気付かない様子で、当然のように島田の横を通り過ぎる。礼くらい言え、そもそもよけろ。島田は先ほどから自分ばかりが道を譲っていることに腹が立った。改札付近で、40歳前後の大柄な男が前から大股で歩いてくるのに気付いていたが、島田は道を開けなかった。その男とすれ違いざま肩が強くぶつかり、互いに振り返る。男は眉間に皺を寄せ、島田を睨む。島田は己の体が熱くなるのを感じた。反転し数歩戻って、すれ違った男に詰め寄り睨み返した。

「気をつけろ、お前。」大柄な男が傲慢に言う。

「お前が気をつけろ。」島田は年上の男を下から睨み言う。

ほんの数秒鼻息荒く睨み合うも、馬鹿は相手にしていられないというような表情を互いに見せ合い、ほぼ同時に睨み合うのを止めて周囲の雑踏に戻った。

 自分が一瞬の内に緊張していたのが分かる。脈拍はまだ速く、顔が熱い。何だか後味が悪く、自分が逃げたように感じた。あのまま喧嘩でもすれば良かったと思う。仕事場で作り笑いを浮かべ、慇懃な態度と口調で年上の警察官に接している自分が頭に浮かぶ。つくづくせこい男だ。

 

新宿駅を出れば、汚い街、うるさい人ごみ。冬の空っ風が島田の顔を乾燥させる。イヤホンから流れる流行の音楽が島田の心を一層哀しくさせた。駅前の通りを5分くらい歩き、地下の蒼く暗いマンガ喫茶に入る。薄い壁で仕切られた狭く暗い空間で、漫画は読まずに、6時間位かけてネットからエロ動画を探す。果てそうになる度に動きを止めては快感を貪り、6時間かけて一回の射精。射精後の虚無感と後悔を抱えて漫画喫茶を出た。おれの虚無感は最近読んだ小説の主人公とは違う等と島田は考えたりして、冬の新宿を歩く。その小説の主人公は、クールで穏やかで、感情の起伏の無い男。女が寄ってきては、つまらなそうに楽しい体験をして、悲しんでいる。そんな奴がこの世の中にたくさんいると思うと腹が立つ。セックスをして悲しんでいる。気取ってやがる。

その夜、新宿の街で、島田は必要もないのに、自転車を盗んでみようと思った。いつも自分が検挙しようとしている自転車窃盗犯に自分がなる。まるで馬鹿げた行為。鍵のかかっていない自転車を本屋の前で見つけ、何の用もないのに、乗った。捕まったら警察を首になる。どうでもいい。どうとでもなれ。しかし実際に自転車に乗って街を漕ぎ出すと島田は異様な胸のざわつきを覚えた。警察官やパトカーがいないかせわしなく辺りを確認し、焦って自転車を漕ぐ。街のネオンや騒音がやたらにうるさく、島田の目鼻を捉える。原色のネオンが島田の頭の中で絵の具のように混ざり合い、虹色の線になって島田の横を通り過ぎる。盗んだ自転車で、新宿の街を意味もなく彷徨ったが、島田は、間もなく、自転車を元あった場所に戻し、新宿を出た。帰寮する電車の中で、つり革を掴み、外の景色を眺める。住宅ばかり続くおもしろみのない景色を、電車の窓ガラスに映る自分が通り過ぎていく。ガラスの中の自分と目が合った。強がって生きている弱い男。おれは俺の正体を知っている。

 

 勤務と休日を無為に過ぎさせ、同じような夜がまた来る。春の訪れ近い夜中2時の甲州街道で、横断歩道から流れる電子音だけが響く。ひとっこひとりいないこの道でなぜおれは立っているのか。決められた方針に従って、忠実に仕事をこなす考えない機械。

 

 110番通報が入り、突っ立っているだけの仕事から開放された。通報内容は家庭内暴力。近くの都営住宅まで向かう。息子が母親に暴力を振るうという母親からの通報だった。都営住宅は汚れた白い建物で、長年の雨による黒い汚らしい線がたくさん壁に入っていた。夜中2時の都営団地は、薄汚れたオレンジ色の街灯に照らされ、何とも悲哀であった。都営住宅3階の小さな箱の中には、ねずみのような家族が三匹暮らしていた。ねずみ顔の母。目が細く、釣り上がっている。リスが冬眠に備えて頬を膨らますように、母の頬も醜く膨れている。そばかすの乗った肌がくすんでいた。警察官の来訪に、母はドアを開けた。さび付いた重いドアから耳障りな金属音がしてドアが開く。母は警察の到着に少しほっとしたような表情を見せるも、来たのが若い警察官1人であったことから不安そうな表情も見せた。それと同時に、母の目が好色な目で若い島田を見たのを島田は見逃さなかった。息子が暴れると言って110番した母は、自分の性的な関心を無意識にも忘れていない。セックス好きなねずみ顔に吐き気がした。長男15歳、長女14歳。暴れるという長男は、島田が着いた時には、全く暴れている様子もなく、むしろ悲しげに、母に似たねずみ顔を泣きはらした跡が見えた。普段からむくんでいるだろうねずみ顔が、さらに浮腫み、母譲りのそばかすみたいなシミの上で乾いた涙がネトネトとしている。14歳の娘は、母や兄に似ず、清楚で可愛いらしい顔立ちをしており、ネズミというよりリスのように可愛い様子だった。もしかすると異父兄妹かもしれない等と島田は思う。パジャマ姿のリスから、発達し始めた女の、ふくよかなラインが見て取れる。その胸元や腰のカーブを見て、島田は少女とのセックスを想起した。白い肌にふくれはじめた乳房、生え始めた陰毛と腰の艶めかしいカーブ。勤務中夜中の2時、110番臨場の際、自分の性的な関心を無意識にも忘れていない。

 後から合流してきた上司が、なにやら母と話しこみ始めたので、島田は15歳少年と話をするために、彼を外に連れ出した。

「私があの子を叱ると、暴れるんです。私はあの子にいい子になってもらいたいだけなのに・・・」

 島田の上司に媚びるように訴える母の声が、少年を外に連れ出す島田を微かに追いかけた。少年と二人で階段の踊り場に出ると、都営住宅3階の狭い踊り場から島田の息が白く立ち上る。東京は間もなく春になろうとしているが、夜中の空気は冬とまださほど変わりない。2人が立つ場所から、漆色の夜が見える。

 別に何かを解決できると思って、島田は少年と話そうと思ったのではなかった。単純に、若い男と話すのが嫌いではなかった。

「おれだって、ちゃんとやろうと思ってるんだ・・。それなのに怒られて・・」

少年は細い目を島田の視線に合わせることなく、どこか落ち着きなく話す。その動作は、島田にまたもネズミを連想させたが、不快なものではない。少年のことなど本当はどうでも良いと思っているくせに、島田は親身な大人のふりをして話を聞いている自分に吐き気がした。

 

 眠い頭でいい加減な心持で話を聞いているせいか、少年の話が取り留めのないものだからかは分からないが、島田には少年が何を悩んでいるのかあまり良く分からなかった。ただ、真剣に話を聞いてはいたので、少年はいささか島田に心を開いたようではある。街頭に立って、ただ自転車が来るのを待つよりも、この少年とこのまま話をしていたほうが良いと島田は思ったが、事件でもないので、帰る上司とともに間もなく去らざるを得なかった。

 

少年宅を自転車で離れると、上司と別れたが、深夜の街頭での自転車盗検挙活動には戻らず、島田は外で隠れて眠るために、ひとりどこか場所を探した。夜中3時を過ぎれば、島田の頭はいつも働かない。その日は、児童館の外2階に一時的な休息の場を得た。濃紺の夜に黄土色の満月が輪郭を霞に覆われ光っている。児童館の前に無造作に置いてある長いすに横たわり、島田はそのぼやけた月を朦朧とした意識で眺めていた。さっき少年と話したせいか、眠りの狭間に高校生だった頃の自分がぼうっと見える・・・

 

 頭から小便が流れてくる。暗い夏の夜の思い出。島田は高校三年生だった。人気の無い雨が降る夜八時の公園で島田はパンツ一枚で土下座をして頭から小便をかけられていた。初夏の生暖かい夕立の夜だった。雨と小便にまみれた頭で、遠くから聞こえる雷鳴を響かせ、島田の心は死んでいなかった。自分だけがそう思っていた。島田の顔は汚く殴られ、青と赤に晴れ上がり、鼻水と尿と雨が混じり流れる。お代官様許してくださいと陰茎と体を縮め、それでもまだ誇りを失っていないと勘違いしていた。弱そうな年下のヤンキーにタオルで目隠しをされて殴られた。進学校に通う痩せた少年が夏の夜の暗い公園で惨めになる。十五人くらいに囲まれていた。奴らの顔が見える。今でも見える。細いネズミのような男ども、目を細めて笑ってやがる。タオルを頭にまいて、手加減して殴ってくる。倒れたふりをした。「おれ、こんなよえー奴みたことねぇ。ははははは」悲しい。思い出したくない。思い出せない。心臓が速く脈打つ。目隠しをされ殴られる前には、雨はまだ降り出さず、夏の生暖かい風が、公園の草を緑色に揺らしているのが、ネズミ男たちの後ろに見えていた。辺りはまだ明るく、初夏の夕暮れの気持のいい風が吹いていた。一緒に絡まれた俺の友達は横で立って見ていた。どんな顔をして見ていたのか分からない。どんな気持ちだったのか。不思議と恥ずかしくなかった。そこに男の誇りは微塵も存在していなかったのに。血の味がする。目隠しをされたまま、逃げようとした。草がぼうぼうの暗い公園に足をとられ、走ってもちっとも前に進まずに、すぐに捕まった。「こいつまじ足おせー」おれは一体何をやっているんだ。強がっているのか、びびっているのか体が動かない。なんで強がってるのか。やるならとことんやれよ、みっともない。思い出したくない。気が狂う。自分の矮小さ・汚さをたたきつけられてそれでもそれを拒絶したあの七月一日の夜がこみ上げてくる。おれは自分のなんたるかを知っている。おれはおれの正体を知っている・・・。

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