【最終話】警察小説・Kiss the Rain 第13話 春

警察官小説(刑事モノではない)

《 春 》

早春の珍しく暖かな日、島田は警視庁機動隊の放水作業に参加していた。島田は昇任し、2年半程前から機動隊に勤務していた。雲一つない、突き抜けるような青い空に海からの潮風が吹きこむ。その青い空に、太く白い一線を描いて大量の水が放たれる。彗星の尾のような白線が放物線を描き、大量の飛沫が青空に霧を作る。細かな飛沫が春の太陽に照らされ、キラキラと光って落ちた。

3年前の、12月のあの晩以降も、島田は警察官として働き続けた。何事もなかったように勤務し、食事をして、眠る。ただ、何をしていても、自分が強姦をしたという意識が頭から離れることはなかった。自分は彼女をレイプした。島田はそう思う。

あれからしばらくして、レイプの定義をインターネットで調べたり、刑事課の署員に仕事のことを尋ねるようにその定義を聞いたりもした。

「挿入があれば強姦、なければ強わいになることが多いな。強姦未遂や準強姦もあるけどな」

刑事課の署員のその簡潔な回答を聞いて、島田は少しの安堵を得て、すぐにそれを打ち消した。自分がしたことは挿入がなくともレイプだ・・。法律がどうあろうと、おれがした行為は強姦だ・・。あの晩のことを思い出すと、島田は目の前が真っ暗になり体中の血の気があの時のように一斉に引いていった。殺人、強姦は地獄に落ちる。

教会へは一切足が向かわなくなり、休みの日には、好きだった運動もせず薄暗いマンガ喫茶に閉じこもり、長い間遠ざかっていた自慰に何時間も耽った。長時間かけた自慰の後には、何軒も食事屋を回り、メシや甘いものを無理やり腹に詰め込む。いつまでも満腹感を得られずに、ただはち切れる程膨らんだ腹を抱えて再び自慰に戻る。柔道の練習にも顔を出さなくなり、署員から誘われる飲み会に顔を出すことも一切無くなった。しかし、やがて島田がそれらの誘いを断る必要も無くなった。何者かに憑りつかれたように、常に暗い表情で、ほとんど口を開かない島田を見て、周囲も気味が悪くなったのか、皆が島田を避けるようになっていった。

そういう生活をしばらく続けた後、島田は機動隊へ異動になった。島田は機動隊の中で、進んで厳しい訓練に取り組み、厳しいと呼ばれている隊に自ら申し出て、かつ選抜されて入っていった。勤務が厳しければ厳しいほど、島田は自分の気持ちを安定させることができた。島田は自慰を再びやめ、体を鍛え、瀟洒な食事や消費は一切せず、必要がなければ外出すらせず部屋に籠っている等、いつしかその生活は修行僧のようなものになっていった。

今回の放水作業に、島田は志願して参加した。数十名ほどの人員のほとんどは、島田より年配の警察官ばかりで、どの男も機動隊歴の長い、腕利きのベテランばかりであった。東京から目的地に向かうバスの中、水に流された瓦礫だらけの街が見えた。

現場では、爆発とやらで露わになり倒れかけた鉄柱があちこちで交差していた。瓦礫だけが空しく散らばる沈黙した世界に、ピーピーという警戒音だけがどこからか微かに聞こえる。入念で迅速な準備の後、放水が始まる。

雲一つない、突き抜けるような青い空に海からの潮風が吹きこむ。その青い空に、太く白い一線を描いて大量の水が放たれる。彗星の尾のような白線が放物線を描き、大量の飛沫が青空に霧を作る。細かな飛沫が春の太陽に照らされ、キラキラと光って落ちた。

濃霧の細かいシャワーが、仰々しい防護服を纏った島田に降り注ぐ。頭の先からつま先まで全てを覆う防護服に包まれて、プラスチック眼鏡越しに見上げた青空が島田の目に甘かった。防護服の閉じた空間の中で、島田はゆっくりを目を閉じ、半ば茫然と立って、その両手を天に仰がせた。

自己中な世の中にうんざり。自己中な人間、自己中な男、自己中な女、自己中な遺伝子。そいつらにやられないように、俺も自己中になるしかない。セックスするために、恋人を守るために、家族を守るために、国を守るために、みんなが自己中になる。みんながどこかで折り合いをつけて、自分を守るしかない。優しくなんてなれない。だからせめて、優しいふりはしたくない。

俺たちはみんな素直に生きてるだけだ。あんたが与えたように、決めたように生きているだけだ。自ら選んでいるのか。おれはそうは思わない。あんたに選ばされているだけだ。

なのに、あんたはなんで俺たちを苦しめる。惑わせる。苦しみの見えない者に愛は見えない。哀しみのあるところに愛が生まれる。苦しみは愛である。そんなきれいごとはいいんだ。

あんたは呼んでいるつもりかもしれない。心をノックしているつもりかもしれない。でもあんたが呼ぶ人間みんなが強いわけじゃない。あんたのお気に入りのようにはなれない。

なのに、なんであんたは俺の心をやたらと叩く。私を中に入れなさい。おれもあなたを信じて良いんですか。奇跡なんか何も起こらない。何も変わらない。それでも俺はあなたを信じたい。おれにその資格があるならば。

 

島田は天を仰ぎ、顔を覆うマスクを取った。無数の細かい霧が、直に島田の顔に当たる。落ちた霧は島田の顔の上で小さな水滴となり、目尻を伝って幾つもの滴が零れ落ちた。高く青い空に真昼の太陽が小さく輝き、彗星の尾のような水の線が空を切って高く上る。水は放物線を描いて建屋に吸い込まれていた。その建屋の、むき出しの鉄柱が交差する前で、島田は彼女が微笑むのを見た気がした。

音楽が聞こえる。いつか深夜の街で流れていたあのピアノ曲。彼女が好きだと言っていた静かな旋律。Kiss the rain その悲しみにキスを。

(おわり)

コメント

最近のコメント