【警察小説・Kiss the Rain】第10話 秋②

警察官小説(刑事モノではない)

どん、どん、どん、どん、どん

大袈裟な和太鼓の音が響き、署の柔剣道場は紅白の垂れ幕で飾られている。夏に予定されていたはずの柔剣道大会が漸く11月になって行われたのだ。署員精励のためのイベントであったはずが、日程が流されるうちに、その目的自体も変わり、住民や市内の関係機関との交流を図ることを目的のひとつとした、公開試合になっていた。大会の数日前には、若手警察官が刈りだされ、道場を隈なく掃除し、来賓席まで設けた。その来賓席には、市長を始め、市議会議員や民生委員、自治会の役員、教育委員会の職員までが座る。

署員たちは、なぜ柔剣道大会が今になって行われるのか、市の関係者との何かの会議の際に署長が気まぐれに思いついたことだ、等と話しており、特に休日に試合に刈りだされる署員達は不満を露わにしていた。しかし、柔道好きの中年警察官や、柔道を得意とする若手の警察官達は、試合の行われるのを歓迎していたし、11月に入って、大会の日程が発表されると、不満を持っている署員も含めて、大会の話題で賑やかになった。誰が優勝する等の噂話や、何課の誰が強い、あいつは弱い、誰々には負けないなどの発言が、署内の至る所で聞かれた。

公開試合と言っても、単なる署内イベントで、自由エントリー制のトーナメント方式で行う。表向きは任意参加であったが、警察イベントの常で、若手警察官は任意と言う名の強制参加である。トーナメントには、若手警察官全員のほか、柔道を得意とする署員や地元の中高生や住民までもが出場することになった。単なる署内イベントとは言っても、面目はかかる試合でもあり、試合日程が発表されると、若手署員の間で俄かに緊張が走った。

島田は、春ころから意識していたその署内イベントが行われることを、大きな緊張を持って受け止めた。単なる署員精励イベントであったはずの試合が、来賓席まで設けての大きなイベントとなったのは島田の誤算であり、待っていたはずのイベントを恐怖に感じ、大会の1週間前には彼の緊張は非常に高まった。

試合当日、朝早く島田は目覚めると、試合会場の準備のために道場に向かう。試合のために洗い、固くなった柔道着に着替え、警察署に向かう間、緊張のためか短い息をハッ、ハッと吐く。早朝の空気はもう冬に近く、島田の犬のように短く吐く息が白い。警察署の5階まで階段を駆け上がり、道場に入ると、すでに多くの若手警察官たちが、柔道着や剣道着姿で長机や椅子を道場内に運び入れていた。道場の入り口には、毛筆で大きく署員精励柔剣道大会と書かれた木板が掲げられ、道場の壁は紅白の垂れ幕で覆われていた。ものものしい会場の雰囲気に、島田の緊張は高まり、冷たく乾いた手の平から、さらに冷たい汗が滲む。緊張のせいか昨晩は深く眠れず、紅白の垂れ幕がチカチカと島田の目に痛い。観客席設営のために机や椅子を運ぶ警察官たちは、同係や他係の見慣れた若手警察官であるのに、いつもより一回りも二回りも身体が大きく、堂々しているように見え、島田の足はすくんだ。

島田は己の臆病をなじったが、準備運動をしても、体も緊張もほぐれない。午前10時を過ぎ、来賓が揃い、観客が集まり始めたところで、警察官たちがきちんと整列しての開会式があったが、整列した背の高い警察官の中で、頭ひとつ小さい島田の顔は真っ青に見えた。

島田の一回戦の相手は、島田より1年後輩の若い警察官だった。島田はひどく緊張しており、頭が真っ白な状態で、足がガクガクと震えているように感じた。始めの合図でひどい緊張と興奮を抱えて相手に向かった島田の身体はガチガチに固まり、組むとすぐに相手の足払いにいとも簡単に倒れ、畳の上から相手の優越感で興奮した顔を見た。そこで始めて島田の視界は、霧を払うように開け、観客席に座る一人一人の表情までがスローモーションで島田の目に入った。緊張が溶けだし、情けない気持ちで顔が真っ赤になるのが感じられる。運良く一本を免れた島田は、立ち上がると、相手を掴む。身体の力がようやく抜けて、何度も練習した背負いをかけると、相手の身体はきれいに宙を切って半転し、どーんという音を立てて畳に叩きつけられた。一本。

そうだ、それでいい、冷静になれ。島田は自分に語る。ようやく落ち着きを取り戻した頭で、会場を見回すと中年男性ばかりの観客の中に、彼女の姿を認めた。児童相談所の職員として、招かれたとも考えられぬことはないが、おそらく伊藤先輩が見に来るように誘ったのだろう。島田にとって、彼女が会場に来ていることは驚きであったが、試合のことで頭がいっぱいの彼にとって、彼女のことを考える余裕はなかった。

2試合目、3試合目、緊張が解けた島田の体は軽かった。相手は、島田より一回り体の大きい者だったが、2試合とも面白いように小内と背負いがきれいに決まった。練習の成果に島田は満足だった。

4回戦で島田はあの伊藤先輩と当たった。島田は小内と背負いを織り交ぜて、また交互にかけたが、伊藤先輩には通用しなかった。かわされるたびに、何だか鼻で笑われているような気がして島田は自分の顔が赤くなるのを感じていた。以前の朝稽古で組んだ時と同じように、奥襟をがしっと捕まれ、島田の顔は先輩の胸に叩きつけられた。夜のグランドで何度も伊藤先輩を背負いで投げるイメージを膨らませてきたが、それも全く適わず、またウサギのように先輩にいとも簡単に無抵抗に投げ飛ばされるのだけは御免だと思う。先輩は無理やりに力で島田を投げ飛ばそうとするが、島田は以前のように簡単には投げさせなかった。自分の背負いも、小内との連携も効かなくても、これまでの練習の成果は投げられないという点において良く発揮されていた。先輩が投げのモーションに入る度に重心を落としたり、腰を引いたり、足でかわしたりして、そうそう簡単には料理させない。先輩ももどかしいと見えて、さらに強引に島田の身体を揺さぶる。先輩の熱い息遣いを頬に感じて、暗い視界の中、島田は風俗店で荒い息遣いと赤い顔で射精する先輩をなぜか思い浮かべた。そんな想像ができるほど、島田はまだ余力を残していた。がしりと捕まれた奥襟は外せなくとも、以前の稽古で感じたような苦しさはほとんど感じていない。これまで走りこんできたおかげだと思う。一方相手のスタミナは限界に近いと見えて、そうこうしている内に、奥襟を掴む力も弱っている。思い切りよく頭を後方に引き、島田は奥襟を掴む伊藤の手を外すことに成功した。今まで伊藤の胸に押し付けられていた、暗く蒸し暑い狭い世界から解放されると、急に視界が開け、周囲の音が聞こえてくる。会場のどよめきが聞こえる。どうやら奥襟を捕まれ何度も相手の投げのモーションに対してもんどり打ちかわす島田がいつ投げられるのか、暗闇に島田がいた間に会場の注視を得ていたようだった。

奥襟を外した小さな獲物に対して歓声が上がっている。島田の目の前で顔を真っ赤にして悔しがる先輩は荒く息をついている。相当にバテているのか、足元がよろついているように見えた。島田は冷静だった。息もあがっておらず、まだまだ動き回れるほど体力も残していた。汗を含みしなびて、大きく上下に揺れる先輩の柔道着の肩越しに、制服姿で笑いながらこちらを見て座る大柄な署長の顔が見える。おれはお前の見世物じゃない。その署長のかなり後方、大勢の観客や柔道着、剣道着、スーツ姿、制服姿の警察官男に囲まれて、彼女が見えた。彼女ひとりが口を一文字に閉じて身じろぎもせず、じっとこちらを見ている。紅白の垂れ幕と、彼女の周囲の騒ぎ立てる男共の口の中が赤い。勘違いするな。おれはもてたくてやってるわけじゃない。

そんなことを考えて、何がおかしいのか、島田はかすかに鼻で笑うと、先輩は自分が嘲笑されたとでも思ったのか、真っ赤な顔をさらに紅潮させた。弱い小動物に何度も逃げられてたまるかという風に、自分のスタミナ切れを意識できているのかできていないのか、伊藤は足を半ばひきずったまま、島田に近付く。興奮して目だけがやけにぎらついた相手に、島田は奥襟をつかませる前に、自らの左手で相手の右胸の柔道着を掴んだ。取られたのが右袖でないからか、弱い島田など警戒するに足らんと考えているのか、島田の背負いなど全く警戒する様子もなく、伊藤は大きく右腕を振りかぶり島田の奥襟を掴みに来た。奥襟を掴むか掴まぬかのぎりぎりのところで、島田は右腕を伊藤の右腕に下からアッパーカットのように素早く回し一本背負いをかけた。

体をひねり、でんぐり返しをするように島田が勢いよく回ると、伊藤の体は大きな円を描いて宙を回って畳に落ちた。島田はそれが一本になるのかならぬのか確かめる間も持たずに、畳の上で横たわる伊藤の身体の後ろに引っ付いた。伊藤は自分が投げられたことで、ショックを受けていたのか、畳の上で背後に回る島田に気付くのが遅くなる。島田は伊藤の両襟をぐっと掴むと渾身の力を込めて羽交い絞めの態勢に入っていた。島田の足の甲が伊藤の股ぐらをがしっと開き固定する。島田は寝技が好きだった。背負いと小内の連携を練習する傍ら、島田は寝技を熱心に練習してきた。

島田の耳にやけに外野の音が騒がしい。しかし、島田の目には意味を成すものは何も入らず何も聞こえず、畳のにおいと伊藤の暴れる体が見えるばかりだった。自分よりかなり大きい伊藤の躰を下から抑える。伊藤の躰は始め、人間に捕まったトンボのようにその羽を思い切り震わせ抵抗したが、島田の絞めがきれいに決まっているのか、わずかの間にその抵抗も消えていった。外野の声が一際騒々しくなり、島田はその手に一層力を込めた。伊藤の体から力が抜けていき、絞める島田の脳裏に残酷な快感が垂れる。トンボの羽を一枚ずつむしり取っていくような快感が黒い液体となって島田の肢体を流れ回り、島田の頭は真夏の焼却炉のように赤々と燃えた。伊藤の躰から一切の力が抜け、死体を抱えた時のように、だらんと島田の体にその重みが加わる。伊藤は落ちていた。

審判の真っ赤な顔が島田の眼前に突如浮かび、何事かを大声で叫んでいる。島田は審判の制止にも気づかず、伊藤を絞め落としていた。ゆっくりと畳の上に起き上がる島田の眼に紅白の垂れ幕がチカチカと揺れる。同僚警察官の賞賛と非難の入り混じった視線を感じながら、その視線の奥に島田は彼女の姿を見つけた。その両目を大きく開けて、見てはいけぬものをみたように口を両手で覆っている。島田はその彼女の姿を視界の脇に収めただけで、再び彼女のことを見ようとはしなかった。視線を畳に移すと、同僚に助けられ目を覚ました伊藤が咳き込んでいる。島田は畳に横たわるそれを、かつて自分がそうされたように、上から見下ろした。

次の試合で、島田は簡単に畳の上に転がり負けた。礼をして下がる島田を、他の警察官達が何となく安心したように観ている。その中に島田は彼女の姿をわずかに探したが、先輩の傍にでも行っているのか、彼女は島田の試合を観ていなかった。

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