【警察小説・Kiss the Rain】第1話 冬①

警察官小説(刑事モノではない)

《 冬 》

悲しみにキスを。

あなたの目の前にある、

その悲しみにキスを。

あなたの目の前にある、

その憎しみにキスを。

難しいことはいいから、

あなたの目の前にいる、

そのひとにキスを。

 何が優しさだ。偽善めいた言葉には反吐が出る。島田は実際に、疲れと汚れが絡み付いた、唾とも反吐とも判別のつかぬ物を道路に吐き出した。東京は23区の外側、夜中になって静まりかえった街で重い警察自転車を漕ぐ。寒い街は静かに、吐く息を溶かしていく。暗く寝静まった商店街に人影は全くなかった。街灯の周りがその周辺の冷たい空気を巻き込んで、そこだけぼうっと明るい。島田は小さな駅前商店街の電子掲示板に浮かんだその文章を、深夜の街に流れる音楽と共に読んだ。その音楽は美しいピアノ曲。切ないメロディに乗って、夜中二時半の朦朧とした島田の頭に、灯篭流しのように様々な思いが浮かび流れては消えていった。

 とにかく寒い。靴下二枚・手袋・タイツと着込んでいるのに、手足が悴んで、その感覚はほとんどない。空気が氷の矢のように何千本も絶え間なく体に刺さってくるようだ。東京2月の深夜2時は冬山並に寒く感じた。そして眠い。寝たら死ぬぞ。くだらないテレビのシーンを思い出す。

 重い冬服制服に着けた受令機が島田の交番管内の110番を受信。

「調布市仙川町3丁目、110番・・・」。交通事故の110番、怪我はない模様。いったん交番に戻り、書類・用具をもって向かう。スピードの出ない警察自転車が足に重い。一応、急ぐ。警察官になってこの方、いつも時間に追われているような、何かに焦っているような感覚が付きまとう。気持ちが落ち着く時がない。警察学校で身に付けさせられた焦燥感がいつも付きまとう。いつも誰かに監視されているような、作業用機械でもあるかのような感覚。何でも時間通りに済ませることが習慣になっている。そう思って、自転車を漕ぎながら悲しくなった。

 

 現場に到着すると事故の当事者が待っていた。事故のイライラを島田にぶつけてくる。こっちまでイライラしてくる。我慢、我慢。雨まで降ってきて、空はますますどす黒く渦巻いていった。寒い、眠い。事故の報告書を手早く書いて、交通整理をする。数年でもやれば、慣れた体が勝手に動く。事故の当事者に必要な説明を与えたが、この報告書がどういう経緯をたどり、この事故が具体的にどのように処理されるのか、よく分かってはいなかった。分かったふりをして仕事をしている。警察官になった頃、世の中は子供のママごととあまり変わりないなと強く思った。みんなそれぞれの職業を分かったふりしてやっているけど、本当はみんな不安で自信がない。

 学生の頃、くだらない大人になりたくないと尾崎豊ばりに思っていた。今実際にやっていることはどうだ。社会の小さな歯車になった、ロボット。誰でもいい、誰でも代用が利く。なんで働いているのか。

 畜生。降ってくる雨が冷たい。事故車がレッカー移動されるまで、交通整理。雨が島田の体をつたって滴り落ちる。道路の真ん中で交通整理。案山子のように、交通整理。死ぬまで交通整理。蒼く暗いさめざめとした路面を、雨に黒く濡れた島田の顔を、深夜の甲州街道を飛ばす車のライトが七色に光らせていく。闇の中で島田の片目が暗く光る。おれはもっとできる男だ。こんなところで突っ立てるはずじゃない。ばかやろう。松坂も中田もこんなことやってない。凄い奴はこんなことやってない。三木谷も橋下もこんなしょぼい仕事なんかしてない。畜生。

 

 疲れた。眠い。隠れてどこかで寝たい。際限なく続くように感じるこの夜勤から。眠ればこのイライラも少しは収まるだろう。夜勤は大体、体に合わない。人間は夜眠るようにできている。もう何でもいいから、夜眠れる仕事がしたい。凄い奴になんかなれなくていいから、せめて夜眠りたい。畜生、どいつもこいつも能無しで腹が立つ。効率が悪い。

 

 甲州街道の真ん中で、背中に警視庁という文字が入った紺色の雨合羽を着込み、立ちつくす。交通整理をしているのか、ただ立っているのか。交通指導用の赤い蛍光灯を島田は何となく動かした。青白く浮かびあがった警視庁という背中の三文字だけが、島田を定義する。直ぐ傍をたくさんの車が黒い水沫を立てて走り過ぎて行った。運転者達は暖かい車内から、島田を無表情の丸い目で見ながら泳いでいく。黒い魚、銀の魚、白い魚。事故を起こした体のでかい男が道路脇に見える。悪びれる様子もない。傲慢な野郎だ。寒そうに太った背中を丸めて、煙草を片手に携帯で何か話しながら笑ってやがる。馬鹿野郎。

 

 処理を終えて交番に戻ると午前四時半。相勤の主任が仮眠を取りに二階にあがった後、ひとり交番の机に座る。暖かい交番内で椅子に座る、それだけで幸せ。うとうとする。暖かく乾燥した空気が島田の制服を乾かす。タイ焼きになって海の底を泳ぐ、気持ちがいい。午前六時、足音が霞掛かった白い街に聞こえだした。交番の机の上から、白く目覚めた朝が見える。車のエンジン音。歩く会社員。ガラス張りの交番の中から見える、動き始めた世界。カツカツと軽快な音を立てて歩く、スーツ姿の女の細く長い足が艶かしい。

 

 夜勤が昼近くに終わり、一睡もしていない顔は鏡の中でミイラみたいに見えた。能無しの同僚どもが、呑気な顔をして昨晩扱った事件について楽しそうに話している。疲れていないのか。自分だけが寝てないのか。畜生。体がだるい。夜勤後の署内掃除を終え、署の隣にある独身寮に戻る。気持ちが休まらない。一階の寮直室では同じ地域2係の若い警察官達が集まっている。全員独身の寮員たちで、夜勤後はいつも全員で昼食を食べている。くだらない話ばかりしている。イライラする。疲れて眠い。今日も昼食は要りませんと先輩に告げ、さっさと5階の自室に戻る。署の寮は比較的新しく、汚くはない。最近の警察官増員で寮は二人一組の相部屋。六畳の部屋で大きな備え付けのベッドがあり、スペースは限られている。たいていは先輩と後輩が組む。後輩の島田が使える部屋のスペースはあまりない。

 

 風呂に入り、寮の食堂で昨晩の残り物を食べ、少し眠った。深く眠れない。夕方4時過ぎに起きて、外に出る。頭がボーっとして気持ちがいい。理由のないイライラは理由のない寂しさに取って変わられた。つきまとうこの寂しさ。人は、本当はひとりぼっちだ。真っ暗な大海を小船でひとり漂っている。外に出ると風は生暖かかった。

 

 東京郊外のこの街の空気は乾燥している。甲州街道を走るトラックの音がいつも聞こえるようだ。夕暮れ時にオレンジ色に染まるこの街がいつも悲しく見えた。島田はジャージのズボンに両手を突っ込み、首を黒のジャケットに亀のようにうずめて寮の門を出る。暖かく感じた風はすぐに寒くなった。特に行くあてもないが、ここには居たくない。誰も居ない灰色のコンクリートをつたって最寄駅まで歩く。電車に乗り、少し賑やかな駅まで出ると、外は既に暗くなっていた。大勢のロボットどもが駅前の商店街を歩いている。駅前の雑踏はうるさかったが島田の心は静かだった。その辺の焼き鳥屋に入って、酒は飲まずにたらふく食べた。店内の濃い橙色の暖かい空気と賑やかな笑い声が島田をぼうっとさせた。食欲をそそる匂いの煙が店内に立ち込め、職人顔の浅黒い身のしまった料理人と目が合う。何を見てやがる。おれは学生じゃねえ、自分で稼いだ金で食っている、見るな。周りから聞こえる仕事の話、人生論、恋愛話。スーツを着た中年会社員の二人組、頑固そうなブルーカラーの親父たち、新人会社員とその女友達、酔って紅くなった頬、煙の中でいろんな人生が泳ぐ。汚い笑い声、咳払い、威勢の良い店員、島田の周りは橙色に染まる。自分の色だけが違うように感じて、島田は温まった体を立ち上げ、店を出た。

 

 外は暗く黒く木枯らしが吹いていた。見えない枯葉が島田の頭の中で宙を舞う。酔っ払って楽しそうに笑う会社員、帰宅を急ぐ無表情な男や女が小さい商店街を埋める。立ち止まる島田の周りを人が流れる。岩の周りを流れる川の水のように流れる。冷たい川を流れと反対方向に進み、島田は前に来たことのある、どうでもいい風俗店の階段を昇った。暗い階段で、色あせたピンク色のカーペットが女の香水の臭いを放つ。ドアを開くと生暖かい空気が顔にあたる。タバコと酒とピンク色の女の匂いが島田を高揚させた。暖かく暗い店内、低重音でビートを刻む音楽。ぼそぼそ聞こえる男と女の話し声、男の低く小さい呻き。島田が二人用の小さな席に着くと女がやってきた。滑らかな線の女、暗くてよく見えないがきれいな顔をしている。女の匂いと体が島田の冷たい手足に暖かく溶け込んでいく。島田の頭で墨汁とシャボン玉が混ざってはじけ、口から漏れる。終わった。

「わたし、学生なんだ」女が話し、意味のない会話が続く。必要もないのに連絡先を交換して店を出た。虚しさと惨めさが心を浸す。

 

風俗店を出て、全く減ってもいない腹にゴムのようなラーメンと水っぽいカレーライスを詰め込む。人気のない暗い道を歩き、寮の前まで戻ると、寮に隣接する署からパトカーの赤い光がレーザーのように空を切るのが見え、憂鬱になった。玄関で帰寮の記録を書いて、部屋に戻ると年齢では一つ年下の、同部屋の先輩がジャージ姿でテレビを見て笑っていた。暖かい部屋。どうでもいいテレビタレントがどうでもいいことをべらべら喋ってやがる。それを見て笑う先輩。つまらん人生。白バイ隊員になりたいとか言っていた。どんな人生を描いてるのか、それで満足なのか。寝支度を済ませ、布団に入る。先輩はベッドで、島田は床に布団を敷いて寝る。明るい部屋で目を閉じた。すぐ隣のテレビがうるさい。昼間、夜勤明けで眠ったのと、夜勤で睡眠のリズムが崩れているせいか、なかなか眠りに入っていけない。明日は日勤勤務だし、もう深夜0時に近いので早く眠りに入っていきたい。そう考えると逆に眠れなくなった。

 ボリュームを落としたテレビから聞こえる笑い声、エアコンからの暖風が仰向けの島田の顔にあたり、呼吸を乾燥させた。床の埃玉を布団の横に感じる。タオルで覆った瞼の下で目玉が動く。テレビが消され、部屋の灯が消されると、島田は眠りの狭間で彷徨った。

 

 午前六時、目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。もう朝が来ていやがる。先輩を起こさぬように暗い部屋の中で、静かに身支度をする。湿った制服を着込み、寮の食堂で朝飯を済ませ、朝稽古のために警察署の最上階にある道場に向かった。手に持つカバンが重い。寮を出ると暗く霞がかった、まだ目覚めぬ空気が冷たかった。署の階段で眠そうな夜勤明けの署員に「おつかれさまです」と無表情に挨拶をし、五階の道場に着いた。ガランとした道場の空気は冷たく青く透明だ。道場では後輩達がすでに道場と風呂の掃除に取り掛かっていた。島田も柔道着に着替えそれに加わった。道着が体に冷たい。稽古後に皆が汗を流せるように、風呂掃除は新人達の仕事だ。風呂場の五階の窓から、ゴミ処理場のような街を染める日の出が見えた。町全体から肉まんのように湯気が出ている。湯気と朝靄に覆われ、街全体が白くなっている。

 

稽古が始まるとすぐに汗が吹き出た。気持ちがいい。打ち込みをしながら体が目覚めていくのが感じられた。力が入り、動作にメリハリが出る。気持ちがいい。汚い膿が出て行く。目がカッと開き、体から湯気が出た。だぶついた筋肉が締まる。乾燥した皮膚が汗で潤っていく。背負いの打ち込みで、大腿四頭筋が繰り返し伸縮すると、島田の心は弾んだ。

寝技の練習を中年警察官とする。朝稽古に参加する警察官は新人と、柔道・剣道好きのごく僅かな中年警察官だけだが、この中年警察官が結構強い。走ったら直ぐに息を上げてばてるくせに、柔道になるとなぜか適わない。でかい体に何度も抑え付けられ、絞められる。分厚い体に圧迫されて息ができない、汗で体がぬるっと滑る。相手の息が臭い。息のできない島田の顔は真っ赤になり、畳に擦り付けられ、さらに赤くなる。島田の目は分厚い胸の下で赤く光った。

  

その日の勤務目標は自転車盗の検挙。その日だけではなく、それは毎日のことで、当時、新人警察官は寝ても覚めてもひたすら自転車窃盗犯の検挙が目標だった。ここ最近の治安悪化を受けて、警視庁は全庁挙げて刑法犯の検挙数向上に取り組んでいた。それで、一番捕まえやすい、自転車窃盗犯・占有離脱物横領犯の検挙を全庁一丸となって取り組んでいる。小さい犯罪を減らすことによって、大きな犯罪の抑止に繋がるというが、検挙数を増やしたいだけだと島田は思う。自転車の防犯登録照会を何時間も続ける。「はぁ? 防犯登録の照会? またかよ・・」あからさまに不満を言う人達。最近自転車の盗難が多いからだと適当に理由を言った。毎日が自転車の防犯登録照会をすることで終わる。二十歳後半を過ぎた脳細胞は毎秒何万個と死んでいく。

 

日が差しても寒い午後二時の冬の甲州街道をチンピラみたいな中年の男がサンダルで自転車を漕いで向かってきた。

「自転車の防犯登録を見させてください。」

そのまま走り去る男。この野郎。あわてて島田は重い警察自転車に乗り追いかける。

「止まってください」止まれ馬鹿野郎。

「うるせえ!お回り」

後ろを振り返らずに自転車を漕ぎながら叫ぶ男。格別急ぐ様子もない。追いつき、並走する。汚らしい赤色のセーター、ちぢれた白髪交じりの髪。皺の多い顔に話しかけた。

「なぜ止まらない、やましいことでもあるんですか?」

「あぁ? やましいだと? もっと別の仕事しろ、この税金泥棒が。」

結局その男の自転車は盗難自転車でもなんでもなかった。面倒かけやがって。それならはじめから止まれ馬鹿。毎日、毎晩これの繰り返し。意味の無い仕事に思えて仕方がない。

  

 六時過ぎに退署して寮の食堂で夕食を。栄養バランスの取れた食事。白い蛍光灯で明るくきれいな食堂に入ると日勤・非番・休みの寮員警察官たちがジャージ姿でテレビを見ながらメシを食っている。ただの若い男、あたまの悪いおとこたち。性欲のかたまり。先輩格の寮員達は上座でくだらんジョークを言っている。後輩達は下座で申し訳なさそうに静かに食っている。くだらない席順。食堂のテレビ画面では偽善者が青少年問題についてべらべらしゃべってやがる。いかに自分を犠牲にして社会問題に取り組んでいるかを話す。自分に酔った偽善者。鳥肌が立つ。正直な犯罪者のほうが好きだ。

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