【M男の欲望】第7話「郁男の禁欲21日目」

愛の小説

21日目

3週間。もう何の前触れもなく突然射精してしまってもおかしくないとすら思った。場所を選ばず頻繁に勃起し、時折、陰茎の先がわさびを食べたかのごとくツンと痺れた。今にも蛙の卵のようなゼリー状の精液がどろりと出てくるのではないかと思う。

休日の徘徊は止まらず、町行く女の胸や尻を嘗め回すように見続けた。根拠のない自信は増長し、たまに女と目が合うと、この俺に惹かれたのではないかと考え、さらに執拗にその女を見たり、さりげなく後を追ってみたりした。後から冷静になって考えてみれば、なんのことはない、郁男がじろじろと体を見るから、気味が悪くて女は見返してきただけのことだった。インターネット上での徘徊をやめても、町を徘徊し女を見ているのでは意味がないと、女が通り過ぎても見ないように帰宅する道すがら、気がつくと、ショーウインドウに座るマネキンが履くスカートの中に目がいっていた。初夏の太陽が照りつける路上で、郁男の性欲は陽炎となり揺れた。

家に帰っても無論、欲求が収まるわけでもない。テレビをつければ扇情的な女が次から次へと出てきたし、ならばと開いた本では、アルファベットのyの文字すら女の股ぐらに見えた。白紙にyと書き、間を黒塗りし、陰毛に見立てる。体を足して、下手くそな女体を勃起しながら何体も書き付けた。

日曜の夕方、1人で走るだけでなく、さらに運動量を増やして体を疲労させれば性欲が収まるはずだ、と町の徘徊中に見つけた地域の柔道教室に行くことにした。30歳を過ぎて柔道などと自分でも可笑しく思えたが、どうせ運動をするなら強くなれるものが良いと思う。高校の体育の授業で、小柄でおとなしい柔道部の同級生が、いつも傲慢な態度の同級生をぶん投げたのが今でも忘れられなかった。

これまで休日はなるべく予定も入れず、人とほとんど会わないで過ごしていたので、柔道教室に通ってみようと考えるなど、やはり禁欲による変化としか思えなかった。柔道教室は週3日、中学生から50歳台までが2時間ほど一緒に練習をするものだった。ずぶの素人は郁男しかいなく、場違いなところに来てしまったという感があり、最初はひどく恥ずかしかった。中学生達に物珍しそうに見られて、いよいよ帰ろうかと考えたが、体を動かすうち、気にならなくなった。受身の練習をし、それから打込みを習う。寝技や乱取りの稽古は慣れてから始めるという。練習が終わると、40歳代と思しき体の大きな中年男2人に誘われて、食事に行き、そのまま近くのスーパー銭湯に同行した。運動後で気持ちが昂っていたこともあろうが、職場の連中に飲みに誘われても大抵断っていた郁男が、初対面の男に誘われて食事と風呂にまで行くなど、これも禁欲の効果だと思えた。なぜ今柔道を始めようと思ったのかと男に聞かれ、

「強くなりたいと思ったんです」

と中学生が言うようなことを30過ぎの小男はもじもじと言った。禁欲とは別に、それは郁男の本心ではあった。男達は馬鹿にする風でもなく、嬉しそうに笑い、郁男の背中を痛いほど叩いた。風呂場で40代とは思えない、締まった2人の肉体を見て、自分も強くなるのだと言い聞かせた。

翌日、ひどい筋肉痛になったが、気持ちの良い痛みだった。体の調子は相変わらず良かった。朝の目覚めは良いし、体に漲る力があった。表情も肌の調子も、髪質の改善さえも、気のせいではないと思えた。生気のない目が、攻撃的でシャープな目つきになり、男前になったと、女からいつ指摘されるかと期待すらしていた。

攻撃的になったのは目つきだけでなく、郁男は自分の気持ちが攻撃的になっているのを感じていた。ネット情報によれば、禁欲によって代表的な男性ホルモンであるテストステロン値が高まり、人を男らしく、言い換えれば攻撃的にするという。

柔道の練習に通い始めたことで、まだたった一回練習に参加しただけにも関わらず、自分は強くなるのだと高揚もしていた。通りで人とすれ違う時も、意識的に道を譲らなくなった。煙草を路上に捨てた中年男を注意さえもした。

「道路に煙草を捨てないでください。そもそもここは喫煙できない場所ですよ。」

男は郁男を煩そうに睨んできたが、郁男が視線を外さずにいると男は視線をそらした。鼓動は早くなり、冷や汗がでる。そうだ、これでいい。人間は強い者に、いや強そうに振舞うものに従う。その場を離れ、駅舎への長い階段を登る。階段を昇る女の脚がやけに艶めかしい。

先週から、職場での弁当買い出しも黙って止めた。

「今日の弁当どこ?見当たらないけど。」

最初、同僚の一人が、郁男の弁当買い出しが当然あるがごとく聞いてきた。

「買いに行ってないです。」

郁男が相手の目も見ず、無愛想に応えると、相手はちょっと不満そうな顔になったが、特に何も言わず去っていった。それから何日か、昼休みになると郁男が買い出しに行くかどうか、同僚達はそれとなく探っていたが、郁男に買出しに行く気がないと分かると、別の職員に買出しに行かせるようになった。

これまで不満に思いつつも、ずっと続けていた弁当の買い出しがこんなにも簡単に止められるとは思っていなかった。周囲を気にして、己の意見を主張しなかったのがいけなかった。自分が強気に出なかったのがいけなかったのだ。自分で招いたことだったと郁男は今になって気づいた思いだった。主張をしない弱気な奴には無意識につけこみ、強く主張する奴には媚びるのが人間の本質だ。

21日目の月曜、郁男と上司のネズミ女のペアが進めているイベントにおいて、ネズミが自分にミスを擦り付けてきた。調整先に我々から働きかけて仕事を進めるべきではないかと、2週間程前、郁男はネズミに提案していたが、

「これは向こうから言ってくるべき話でしょ。こちらから下に出て動く必要ない。向こうにいいようにされるだけでしょ。そんなことも分からないの。」

提案はネズミに一蹴されていた。イベントに間に合わなければ上も下も元も子もないと思ったが、何も言い返せなかった。

今日になって、ネズミと2人で課長に呼ばれ、なぜ仕事が進んでいないのかと詰問された。

「この件については、佐野くんに任せてあり、先方と調整するよう私は指示を出していました。報告を全然受けていませんでしたので、まさかこんな進捗状況だとは思っていませんでした。今後は私が主体になって、間に合わせます。」

郁男は思わず隣にいたネズミを見た。ネズミはこちらをちらりとも見ず、課長だけを睨むように見ている。仕事を任されていたとも知らぬし、指示など受けているはずがない。先日の郁男からの提案とネズミが言った言葉は一体何だったのだ。信じがたい気持ちで、課長にどう説明すべきか言葉を探していると、課長は怒ってその場を立ち去ってしまった。

課長に詰問を受けた2人に好奇の目を向ける同僚達に気づかぬふりをして、自席に戻ると、隣のネズミに先ほどのあれは一体何のことだと問う。

「そんなことはもういいから、さっさと相手に連絡して調整始めて。間に合わなくなるでしょ。」

ネズミは郁夫を見もせず、キーボードを打つ。怒りで頭が燃えた。俺はいつもそうだ。課長の前でも、ネズミの前でも、言葉が出てこない。後から冷静になって考えれば、いくらでも主張、反論すべき言葉があるにも関わらず、その場で言葉が出てこぬのだ。

言われたとおりに先方と調整を開始したが、気もそぞろで、何時間もさきほどのやり取りを頭の中で再生していた。思い出すたび、憤怒で叫びだしたくなる。どうすべきか何時間も考え、意を決して立ち上がると、課長が座る席の前に立った。ネズミと同僚達の視線が自分の背中に集まっているのを意識する。

「さきほど岩永さんが言ったことは嘘です。私は相手方と調整をもっと早く進めるべきだと岩永さんに提案したのにも関わらず、岩永さんにそれを止められたのです。」

部屋の皆に聞こえているはずだ。部屋の空気が変わるのが分かる。

「岩永さんに止められたからと言って、調整を始めなかったのは私が悪いですが……」

郁男が自分の主張を言いきろうと、徐々に早口になった。

「言い訳するな。それより早く仕事を進めろ。」

課長が苛立って言葉を遮った。振り返らずとも郁男には、鼻で笑うネズミが見えた。その場を離れることもできず、郁男はそこで立ち尽くす。ほんの数秒間だけだったろうが、やけに長く感じた。

「課長、そんな言い方はないんじゃないですか。私もおかしいと思ってました。前に、佐野さんが岩永さんに相手と調整すべきだって言っているの、私聞いてましたから。岩永さんは、こっちから連絡する必要はない、向こうから連絡が来るのを待てというようなことを言ってました。」

振り返ると、熊谷さんが立ち上がっている。

「わかったよ。いいからお前ら戻れ。おい、岩永、あとで俺んとこ来い。」

ネズミがこちらを睨んでいたが、そんなことはもう一切気にならなかった。

夕方、給湯室で彼女と一緒になった。

「さっきはありがとうございました。ほんとに助かったし、うれしかったです。でも、課長にあんなこと言うの、怖くなかったですか。」

「いえ、お礼なんか。自分で腹が立って言っただけだし。こうやって職場のごみ片付けてる佐野さんが、あんな嘘で責められるのは間違ってると思いますから。」

夜帰宅しても気分が良かった。自分の意見を堂々と主張できたことも良かったし、彼女が自分のために発言してくれたことも嬉しかった。給湯室で見た彼女の笑顔が忘れられなかった。これも禁欲のおかげだと思う。自分のためにも、彼女のためにも、禁欲を続けねばならぬと決意を固くした。

気が緩むとすぐにネットでエロ検索がしたくなるのをどうにかせねばならないと、ノートパソコンと携帯端末に、特殊なソフトウェアをインストールする。ポルノ依存症用に米国で作られたソフトウェアで、ポルノサイトにアクセスすると、任意登録したアドレスに、ポルノサイトにアクセスしたことを知らせるメールが自動送信されるというものだ。ポルノサイトへのアクセスを知られて困る相手をメールの自動送信先に設定することで、ポルノサイトの閲覧を自主的に止めさせるという仕組みだった。ソフトウェアのアンインストールおよびメール自動送信の設定解除には、1週間かかるように予め設定されている。つまり、一時欲望に駆られても、一度冷静になって考え直す時間が設けられており、計画的に解除しない限りポルノサイトの閲覧を自己制限できる。自動送信メールの内容は、アクセスしたポルノサイトのURLとともに、任意の文章を設定できる。郁男は熊谷氏の職場のメールアドレスを設定し、自動送信の文章を打ち込んだ。

「佐野郁男です。私は、下のURLのサイト等でエロ動画を何時間も探して見ています。男が女に責められる、いわゆる痴女モノが好きで、そんな動画を見てはオナニーばかりやっています。このメールがいたずらメールでないことを証明するために、私と熊谷さんしか知らないことを書きます。私は先日熊谷さんに助けられ、職場の給湯室でお礼を言いました。佐野郁男」

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