【M男の欲望】第5話「郁男の禁欲14日目」

愛の小説

14日目

2週間、ドロドロの精子が瘤を作って陰嚢に溜まっている感じがした。外に出れば女の胸や脚がやけに目につき、その度血走った目で凝視した。健康的な胸や脚はいつか見たネット動画のそれにすぐに置きかわり、郁男の脳の快楽中枢を刺激する。すぐにでも電流を流すバーを押し倒し、脳につないだ電極に電流を流して快感物質を享受したかった。

仕事をしていても、性的イメージが毎分頭に浮かんだ。かつて興奮したエロ動画のシーンが頻繁にちらつく。職場の若い同僚をつい見ていて、目が合うこともあった。自分でも驚いたのは、禁欲以前であればすぐにそらしていた視線を簡単に外さなくなったことだ。たった2週間で何が変わったのか分からない。何もせずに自信がつくわけもないのに、妙な落ち着きがある。目が合ってどう思われても構わないという半ば開き直った気分だった。他にも、変化を感じた。まず、朝の目覚めがいい。いくら寝ても寝足りないという感覚がなくなり、土日でも平日仕事に出かける時間になると、勝手に目が覚める。自慰ばかりしていた時よりも、睡眠時間が少なくても、しっかり寝たという感覚があった。朝起きると今日はどんな日になるか、しようかと、エネルギーが沸いてくる気さえした。鏡を見ると肌の調子も良いし、特に目つきが鋭くなったように思う。なるべく話しかけられないようにと、同僚に気がつかぬふりをして下を向いて歩いていたのが嘘のように、顔が上がり、周囲を見渡すようになった。職場で知人と会えば挨拶がするりと口から出る。続く会話は以前と変わらず、興味深い話題が提供できるわけではなかったが、それでも会話しようという意思が沸いてくるのが自分でも驚きだった。たった2週間で、社交的になったとは言い過ぎだろうが、人と話したいという気持ちができたと思えた。

先週金曜、職場の給湯室でごみを片付けていると、彼女と2人だけになった。「お疲れ様です」

とだけ声をかけあったのち、背後からこっそり彼女の尻と長い脚を舐めるように見ていると、彼女がふいにこちらを振り向いて、視線をそらす。横にならんで片付けをしている折も、横目で彼女を盗み見た。均整の取れた体つき、細い割に胸もある。レースクイーン、ナース、バニーガール、無意識のうちに以前見た動画のコスチュームを着せては脱がす。ポットを洗う彼女の手が濡れ、その細く長い指が己の陰茎をそっと包むのが見えた。陰茎に血液が流れこみ膨脹しだしたところで、こちらを見た彼女と目が合った。

「雑用、新人だからといって、いっぱいやらされてないですか」

今度は目をそらさずにじっと女の目を見返した。珍しく言葉がすらすらと出た。

「やらされているわけじゃないですけど、やっぱり一番若い人がやるべきみたいな雰囲気はありますよね。雑用があると、みんな私の方を見ますからね。あなたの仕事でしょ、て感じで。」

白い歯が何本も見える例の笑顔を見せて言うから、愚痴には聞こえなかった。

「それはよくないですね。掃除とか雑用とかだからこそ、先輩後輩に関わらず皆がやるべきだと思うけど。」

理解ある先輩気取って何を言う。自分の言葉に吐き気がした。彼女の笑顔に気圧されて、自分の表情が固いのが分かる。良い笑顔とは、白い歯が10本以上見えるのが条件と聞いたことがある。たとえ自分に自然な笑顔が作れたとしても、2、3本しか見えぬ、しかもこの並びが悪く隙間だらけの歯では逆効果だろうと思うと、どんどん仏頂面になる。皆が笑顔になる場でも、何かを真剣に考える風を装っていつも逃げてきた。

「だから佐野さんは、いろいろやってくれるんですね。私が先輩になっても見習いたいです。」

いや、俺の場合はそんなにいいもんじゃない。皆に見下されて、仕方なしにやっているだけだ、とも言えず、ただ曖昧に、笑顔にもならぬ薄笑いを浮かべて俯いただけだった。

土曜の休日、大した用もないが外に出掛けると、街ですれ違う女の服を透かし、乳房の形、乳輪の色や大きさ、陰毛の濃淡、生え具合までじっと見た。初夏の暑さで薄着になった女達が艶めかしい。乳や脚を見るのがやめられなくて、ショッピングモールを意味もなく徘徊した。エスカレーターに乗れば、腿の奥につながるスカートの中の暗闇を凝視し、エレベーターに乗ればすぐ隣の女から立ち昇るメスの匂いを嗅いだ。腋汗の匂いを嗅ぎ、パンストで蒸れた足先を舐め、小便の匂いが微かに漂う股間が己の顔面に押し付けられる。自分の股間を道行く女に当てて、抱きついたら、汗ばんだ乳に吸い付いたら、女はきっと驚くか、どんなに柔らかいか。

普段から、特段に好みの女がいれば服も透けて見えたが、禁欲を開始してから、その対象がひどく広がった。初潮を迎えたかどうかも分からぬ少女のすらりと伸びた足先の、薄い茂みも見えたし、既に閉経済みかもしれぬ五十女の垂れた乳も股の皺さえ勝手に見えた。樽みたいな女のだぶついた腹や、肌の汚い女の湿疹だらけの尻が見えて、慌てて目を背ける。醜い女が己の分際もわきまえず、こちらに嫌悪の眼差しを向けているのに気がついて、郁男も嘔吐の仕草を一人する。選ばれぬ者は慰め合うことなく、いつも互いを軽蔑し合って、惨めな自覚を得る。どんなプレイも、女も選び放題、軽蔑も拒絶されることもない電脳世界の徘徊がしたい。

お気に入りの動画のシーンが脳内再生され、この状態で自慰をしたら、どれだけの興奮と快感を味わえるだろうかと、カフェインと薬を大量摂取した時の興奮が思いだされた。真っ暗な部屋、パソコンの前で、熱帯色のグロテスクな毒の花が、ディスプレイから放たれる光に吸い込まれて、その首を垂れている。花弁から液が垂れ、植物全体が赤黒く興奮しているのが見えて、その気色悪さに郁男はぶるぶると頭を振った。自慰をしたら、あそこに逆戻りするだけだ。

帰宅して一人でいると、知らずに手がインターネットに伸びる。いったんエロ検索を始めたら、スイッチが入りおしまいなのは、これまでの経験から明らかだった。蜘蛛の巣に絡めとられるがごとく、射精するまで、長時間の自慰から抜け出せなくなるのを分かっていたので、今回はネットでのエロ閲覧を一切断っていた。

少しだけ動画を見るくらいならば問題ないだろうという誘惑を断って、運動着に着替え再び外に出た。30分ほど走り、県の運動公園に着くと、欲望は汗に溶けて流れ出す。

学生時代から20代までは、運動をして外見を整えようとする気持ちがあったが、30歳を過ぎると、諦めの方が強くなり、運動はほぼしなくなっていた。体を絞り筋肉を鍛え、男らしいふりをしたところで、内面までは変わらない。

「お前は強引さが足りない。だから女にいい人だなんて言われるんだよ。誉め言葉と勘違いするなよ。いいひとっていうのは、どうでもいいひとってことだからな。」学生時代に友人から言われた言葉が忘れられない。

ただ、今は運動すること自体が気持ち良かった。禁欲を続けることが目的で始めた運動だったが、初夏の日差しと緑の中での運動は自慰とは別の快感だった。穢れは汗と流れ、気分は高揚し、郁男は走り祈った。人気のない公園で踊るように走った。

朝昼晩いつでも、広い公園を走ると、ラッパの音が聞こえた。禁欲を始めるずっと以前、この公園で男がラッパを吹いているのを見た。パジャマのようなよれよれのトレーナーの下の腹だけが、小柄な体に不相応に出ている。初老の男は、河童のような禿頭にもかかわらず、縮れた白髪を伸ばし、後ろで小さく結んでいる。日焼けした顔に無精ひげが汚らしく、まるでホームレスのように見える。たまに公園を歩く人がいると、男のラッパを聞いているわけでもないのに、男は笛吹きの合間に、はにかんだ笑顔を通行人に向けた。郁男はその男から目が離せずに、遠くからずっと眺めていた。

公園を走ると、そのラッパの音が聞こえる。時折それが本当に聞こえているのか、自分の頭の中の幻聴なのか分からなかった。男の体型とみすぼらしいさまが、日頃の、将来の己と重なり、禁欲を続けねばと強く思う。己の性欲と笛吹男の姿を頭からかき消すように、人のいないトラックで郁男は何本もダッシュを繰り返した。

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