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【M男の欲望】第1話「郁男の禁欲1日目」

愛の小説

0日年目
大量の快感物質と同時に、放たれた。どれも捻れるほどに跳ねて踊る。俺はどうだ。己の動きは分からない。周囲に弾かれ、最初から出遅れた。初めて通る道だから、行き先など皆目分からぬはずなのに、皆我先にと乱れて泳ぐ。玉はどこで待つのか。玉など無いかもしれぬ。玉が何かも知らぬ。玉と混ざり合う。いや、混ざり合うも何もない。全ては玉で、玉を目指す自分も周りも皆玉なのだ。玉は混ざり合い、玉になり、分かれ、混ざり、玉になる。玉はモノであり、意思であり、エネルギーである。境界はあるように見えて、ない。色即是空、空即是色。無限の全てはつながる一つで、全ての一つは無だ。ただ、全ての一つが変化するだけだ。そして俺はその一部だ。

1日目
俺が、いや私がいわゆるM男であるかもしれないと気づいたのはいつのことだったであろうか。小学生の頃には、周りの男と比べて、自分の気弱な性格に気がついていたし、思春期になれば良くも悪くも、恋愛も含む人間関係において、攻撃的になれぬ自分に歯痒い思いもした。性的興奮を覚えるのも、インターネット上の動画の話であるが、女性にリードされる類のものであった。

そんなことを考えながら、狭い歩道を歩いていたが、気がつくと、向こうから歩いてくる人々に対して、郁男はほとんど道を譲り歩いていた。そんなところにも自分の気の弱さが表れているのではないかと思い、自分にも、道を譲られたことに気づかず通り過ぎる人にも腹立たしさを感じた。

郁男は日課となっている弁当の買い出しに出ていた。昼前に、同じ職場の皆から昼飯の要不要を集約し、ほとんど毎日買いに出る。それが郁男の仕事と誰が決めたわけでもないのだが、いつのまにか周りも自分もそういうものだという空気ができていた。課内には後輩も何人かいたし、郁男だけが、弁当の買い出しに出なければならない理由はないのだが、後輩達は知らぬふりを決め込んでいるので、郁男が毎日外に出ている。

郁男の会社では、女性職員の比率が比較的高いためか、互いを「さん」付けで呼び合うことが多い。なぜか郁男だけが、「佐野くん」と「くん」付けだったり、「佐野」と呼び捨てにされたりすることが多い。上司や先輩がそう呼ぶせいか、後輩などでも郁男を「佐野くん」と呼ぶ者もいる。陰で、「佐野M男」とすら呼ばれていることも郁男は何度か耳にして知っている。郁男は自身の呼称など気にせぬ風を装っているが、内心穏やかでなく、帰りの電車ではそのことを悶々と考え続け、帰宅後は洗面所の鏡に向かって己を罵っている。

郁男はと言えば、同期でも後輩でも「さん」付けで呼び、敬語を使って話している。自分が己の呼称を内心気にしているのだから、皆もそうだろうと思った。名前の呼び方や敬語の有無などで、相手を不快にしたくはなかったし、何より言葉による序列の確認や駆け引きから降りたかった。
仕事は特段できぬわけではないと思う。運動も十人並みにやってきた。ただ、何をやるにも自信がなかった。心持ちが外にも表れるものと思われ、気弱な印象を周囲に与えているとは思う。

気がつくと、弁当会計の順が回ってきていた。レジ店員と目を合わせるべきか逡巡した後、指定の金額を財布から出そうとしてもたつくと、時間を余計に要している気がして店員と後ろに並ぶ客の視線が気になる。大量の弁当を両手に抱えるも、買い出しをやらされているわけではないと、堂々とした男のふりがうまくできているかどうか。

弁当を十二個持って職場に戻ると、誰も礼を言わぬことが気になり不快になるが、それが同僚達に対するものなのか、自分の器の小ささに対するものなのか判然としなかった。同僚達は弁当代の支払いになかなか来ないので、自分の弁当を食べ始めると、札しか持たぬ同僚達が支払いに来始める。その度、郁男は箸を止め、釣りを捻出し、礼を言って金を受け取る。礼を言うのは相手のはずだとまた苛立つ。箸を何度も止めて同僚達への会計を繰り返すので、食事を終えるのは大抵最後になった。手持ちの小銭が足りず、相手に渡す釣りが捻出できぬ時は、郁男が釣り銭をどうにか工面しなくてはならぬのも、納得がいかぬ。ひどいのは弁当を食うだけ食って、支払いを忘れる者が毎度いることだ。請求に行けば、吝な奴だと思われると考え、しばらく待つ。大した額ではないのだから、気にせず放っておくべきかと悩んだ挙句、引き攣った笑顔とともに、冗談めかして金を無心するかのごとく五百円ほどの弁当代を夕方頃に請求し、自分の悋気さにうんざりするのが常だった。

昼休みが終わると、仕事のペアを組んでいる先輩に、午後の仕事の進め方を報告する。郁男はこの女が苦手で、というのも、ことあるごとに威圧的な態度をとってきて、この女と相対するたびに、必要もないのに萎縮しまうのだった。たいして年齢も変わらぬ、このネズミを連想させる小柄な女の何に萎縮してしまうのか。喧嘩になれば、男の自分が一発殴ってしまったらそれで終わりというような女なのに、と郁男は毎度思うが、縮こまる自分の心をどうすることもできない。この女が特別だというより、そもそも威圧的な態度を取ってくる相手に郁男は決まって萎縮する。威圧的な相手に萎縮するというのは、自分だけではなく、皆に共通することだと感じているが、そんな問題認識を得たところで、現状に対する何の解決にもならぬ。

「このファイリング、綴じる方向逆でしょ?横向きの資料は上を内側にして綴じるのが常識でしょ。」
相手の声で思考を戻す。
「すみません。よく考えずに綴じました。」

内部記録用メモの綴じる向きなどどうでもいい。そんな考えが郁男の口調から聞き取れたのか、ネズミは興奮した口調で責めてきた。しかし、郁男にはそんなネズミの言葉はあまり頭に入らず、家内の同僚達の視線が気になっていた。ネズミが郁男を叱責する際、きまって同僚達は気づいていないふりをする。しかし、雑談が止み、沈黙がその場を占めるので、皆が聞き耳を立てているのがよく分かる。ネズミ同士のやり取りを同僚が聞いていると思うと気になって仕方がない。

この女より、俺自身がよほどのネズミ男なのだ。休日となれば暗い穴ぐらに籠り、脳に繋いだ快楽回線を永遠と刺激し続ける実験ネズミよろしく、自慰行為に耽る。最も気持ちが高揚することが自慰行為なのだ。酒もタバコも女もやらぬ。インターネットから自分の嗜好にぴたりと合う動画を探し、編集し、徹夜で行う自慰が何よりの楽しみなのだ。

己の表情は暗く覇気がないものと、郁男は自覚していた。社内で自分がどう思われているか、気にならぬと言えば嘘になるが、気にせぬよう努めることで、心の平衡を保ってきた。しかし、先月の四月に、熊谷氏がこの課に配属されてから、自分が彼女にどう見られているのか気になって仕方がない。彼女は学校を卒業したばかりの新規採用職員だった。若く、美人と言ってよい顔立ちで、背もすらりと高く、郁男と変わらない、いや自分よりも高いことを認めねばなるまい。自然、彼女は皆の注目を集めていた。普段は、自分とは関係ないことと、職場の女性が気になることはないのだが、彼女から一度話しかけられたことがきっかけで、どうにも気になるようになってしまったのだった。もちろん、郁男がいかに女性と話す機会が少ないといっても、仕事上、話す機会はある。ただ、会社のどの女性も、郁男を男として見ていない、ように思う。他の同僚達には向けられる冗談も、笑顔も、世辞ですら、郁男に対してはほぼ皆無だった。そんな中にあって、彼女、熊谷氏が非常な笑顔でもって、郁男に話しかけてきたのだから、気になってしまうのも仕方のないことだった。

郁男は口の大きな女性が好きだ。いや、正確には、大きな口が笑顔になって開いた時の、整然と並ぶ白い歯が好きだ。熊谷氏はそんな口と歯の持ち主だった。彼女の笑顔を見た時、真っ先に思い浮かんだのは、おちょぼ口の中の、並びの悪く、黄色い自分の歯だった。小さな口が半開きになり、間の抜けた表情で、射精の快感を、脳内で放出される快感物質を余すことなく受け取ろうとしている。かつて、パソコンの横に小さな鏡を立て置いて、射精の際に薄目を開いて確認した自分の顔が脳裏に浮かぶ。だから、彼女の笑顔を正視することができずに、目を伏せた。

彼女と交際したいとか、そんな理由からではない。彼女に話しかけられた際の自分の挙動があまりに情けなく思えたことは、単なるきっかけに過ぎないのだが、僕は、いや、俺は、いや私は、自慰行為を止め禁欲することにしたのだった。禁欲にどんな効果があるのかは知らぬ。ただ、自慰によって、無気力、無表情になり、人と会話する気も失せている気がしていた。自慰が自分の人生を駄目にしているという実感があった。インターネット上の掲示板には、禁欲すれば人間が変わるというような内容がまことしやかに書かれている。禅の本などを読むと、性欲は昇華させることで、大きなエネルギーに変えることができるという。

一昨日の日曜日には、朝から晩まで15時間かけて一射精した。昨日月曜も朝方3時までかけて一射精したのち、自己嫌悪と虚無感の中、郁男は禁欲することを決めたのだ。ピエロの仮面を被りすぎて、自分の一人称が何なのか分らぬ男の陰茎の疼きはまだない。

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