【M男の欲望】第9話「郁男の禁欲28日目(リセット0日目)」

愛の小説

28日目(リセット0日目)

設定したソフトウェアのおかげで、昨日一昨日の休日はパソコンを開こうとすら思わなかった。誤ってポルノサイトでも開き、あのメールが彼女に送信される可能性があると思ったら、通常のネット検索すら怖くてできなかった。ネットサーフィンをやめると、驚くほど時間ができた。この週末は更に有意義に過ごせたと思う。街の徘徊はやめ、依然悶々とする瞬間はあったが、禁欲期間が1か月近くなり、一つの山を越えた気がしていた。エネルギーが溢れる体の感覚は続いていたが、これまでのような、ざわついた感覚ではなく、穏やかで落ち着いた心持ちだった。目標を持ってしっかり生きていこう。一つひとつやっていけばいい。これから自分の人生を築いていこう、そう思った。

土日は早朝に起き、いつもの公園を走った。まだ人気のない公園で、いつものラッパの音が遠くに聞こえる。朝の若い太陽に照らされ、新緑がきらきらと光る。どろどろの血液が脈打つ自慰の高揚感とは全く別の、清流なる爽快感がそこにはあった。

仕事にも使えるはずの資格試験の書籍を購入し、久しぶりに勉強も始めた。夕方、柔道教室に行った後は、風呂に行く。畳に擦れてできた傷に、熱い湯が染みて気持ち良かった。

日曜夜に久しぶりに母親と長く電話で話した。同じ市内に住んでいるから、いつでも会えると思い、普段はかえって会いに行かない。自慰に夢中になっている時は、動画の検索に一日中時間をかけられるにもかかわらず、母に会いに行くのも、電話で話す時間さえも惜しくなる。自慰が終われば、何もやる気が起きず、電話すら億劫になる。それでも、週に一度位は電話をしていたが、変わりがないか確かめるだけの数分程度のものだった。

久々に、昔の話をして母親と笑い合うと、暗闇で自慰に耽る自分は嘘で、この自分こそが本当なのだという気がした。

「無理しないでね。自分のペースでいいのよ。いつも良いことだけ考えていてね。必ず思ったとおりになるから。お母さんはいつもお祈りしているからね。」

電話の切り際、その日も母はいつもと同じことを言う。自分を見ても、母を見ても、人生が思ったとおりになるものだとは到底思えなかったが、その日は素直に母の言葉を受け取ることができた気がした。

月曜日、28日目も気持ちよく目が覚めた。午前中、2週間後に迫るイベントに向けた調整が思ったより順調に進み、これなら間に合うはずだと胸を撫で下ろす。週末に続いて、何もかもうまく回り始めているような気さえした。

昼になって、通勤途中に購入しておいた弁当を取り出したところで、ネズミと交際しているという噂の、同じ課の先輩が郁男の席に近づいてきた。体が大きく、水膨れした河馬を連想させる男で、いかにもネズミに騙されそうだ。

「おい、佐野。弁当買いに行ってこいよ。お前の仕事だろ。最近お前、調子に乗ってんだろ。自分のミスを人のせいにすんな、ぼけ」

体が固まった。先輩の方を見ることもできず、視線を机上の弁当に落としたまま、顔面の筋肉が一切動かない。学生時代を思い出す。頭から小便が滴り落ちてくる。

「おい、聞いてんのか、佐野。佐野M男。お前に言ってんだよ、M男。弁当買ってこいよ。」

M男というくだりで、周囲で小さな笑い声が起きた。俯いたままの視界の端に熊谷氏がいるのが見えた気がした。周囲の笑いに気をよくしたのか、先輩は続ける。

「M男好きな女がいてよかったな。まさか、ああ見えてM男好きとはな。ほら、助け呼べよ。助けて、熊谷さ~ん。」

弁当を買えと言われたことか、M男と言われたことに対してか、自分のせいで彼女までが馬鹿にされたことに対してなのか、怖れと怒りと恥辱で体が震えた。それでも言葉が出てこず、やっと体だけが動いた。立ち上がり、視線を落としたまま相手の胸を両手で強く押した。相手はよろけもせず、すぐに手首を掴まれ、捻りあげられていた。

「おいおい、ミスを人のせいにした次は、暴力かよ、M男のくせに。違うだろ。お前はやられるのが好きなんだろ、こうやって。」

捻った腕を持ち上げられ、身長差のために郁男はつま先立ちになっていた。

「何やってんだ、中学生かお前らは。弱いものいじめはやめろ、斉藤。」

見かねて言った年配の職員の声で、先輩は郁男の手を放し、不満そうに郁男を離した。捻りあげられた手首よりも、憐れむような部屋中の視線の方がずっと痛かった。たとえ殴られても涙は出ぬが、同情されて涙が堪えられなかった。誰かに見られていると分かっていても、いや、分かっているから、涙が出るのを止められなかった。弱い者いじめ、弱い者、いじめ、俺は今もそう見られているのだ。

午後、体調が悪いと言って、逃げるように職場を早退した。帰宅途中に酒を買い込み、家に着くと飲めぬ酒を一気に飲んだ。布団を頭から被ったが、布団に隠れても、酩酊しても、恥辱はむしろ頭の中で大きくなるばかりだった。一向に眠れる気配はなく、夕方再び外に出て、腹が破裂するほど食い物を腹に詰め込み、再び酒を大量に飲んだ。前後左右が分からなくなるほど酩酊し、理由もなく初めて煙草を吸い、初めてパチンコ屋に入った。店内に響く大音量の音楽、アナウンス、パチンコ台から出る電子音。その喧騒が不思議と気持ちを落ち着かせた。無数の銀の玉が次から次へと吸い込まれ、弾けて飛び出し、排出口から無数の玉が流れ出ては、再び吸い込まれていく。その永遠に続くとも錯覚させる光る玉の河が、ルールも分からぬ郁男の頭に心地よかった。

「おい、兄ちゃん、それきてるよ。もっといかなきゃもったいないよ」

隣に座る中年男の言葉とともに、パチンコ台の電子音がひと際騒がしくなっていた。わけもわからず銀の玉を打ち続けた。酒と店内の騒々しさのためか、頭がぼうっとして、結局勝ったのか負けたのかも判別できぬ。足元に大量の銀の玉が入ったバスケットが積まれており、どうやら勝ったものらしかった。換金の方法も分からぬので、そのまま店を出たが、快感と呼ばれる類の感覚がたしかに残っていた。

パチンコ店を出た時には、もう決めていた。閉店間際の家電量販店に入り、ノートパソコンを購入する。あのメールが送信されようが、されまいが、自分の評価など既に地に落ちているのに、一体俺はまだ何を気にしているのか。酔っていても、落ち込んでいても、こんなことには気が回る。己のせこさがつくづく嫌だった。

ノートパソコンを購入した時点で、職場の出来事は頭を離れ、自慰への期待で胸が踊った。少なくとも今から12時間、職場の誰にも会う必要はない。かつてまとめて捨てた薬を、薬局で大量にもとめた。

物凄い興奮だった。触らずに射精できると思った。いや、実際しそうになって、何度も腰を引いて耐えた。約1ヶ月の禁欲と薬の効果で、視覚、聴覚、触覚、全てが敏感で、全ての刺激が新鮮だった。射精を堪えるたび、全身の毛穴という毛穴から精液が漏れ出す。長時間の寸止めを繰り返し、窓の外が明るくなった頃、1回目の射精をした。それまでの興奮が嘘であったかのように、たいした快感を伴わない射精であった。あまりに久しぶりで、脳内で快感物質がうまく放出されなかった気がした。粒を含んだ黄色い半固形の精液がどろりと出た途端、何もかもが消失した。射精への、己の変化への、期待も興奮も高揚も、それが嘘であったのを証明するが如く一斉に霧消した。

職場での出来事が途端に頭に蘇る。数時間後にあそこに戻らなければならないと考えると絶望的な気持ちになった。こんな状態で行けるわけがない、行かないと決めた。どうとでもなれ。ひどく投げやりな気持ちだった。出した精液を手にべっとりとつけ、陰茎を再びしごいた。もう間際で一度も止めずに、数分とかからず射精した。予想もしていなかった凄い快感に襲われ、二度目にも関わらず、再び大量の精液が出た。一度目に出損なった分の快感物質までが脳内で大量放出されたかのようだった。そのまま、三度目に入った。陰茎にも睾丸にも痛みがあったが、どうでもよかった。徹底的に惨めになりたかった。五分とかからず、今度は再び快感のほとんど伴わぬ射精をした。一昨日購入した資格試験用の書籍に、嫌悪とともに放出した。精液を絞り出した後に、涙が出た。おかえり。悪魔が俺に向かって笑っていた。

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