【M男の欲望】第8話「恵里の禁欲21年目」

愛の小説

21年目

息子は高校生になった。なぜそこまで固執するのかというほど、勉強をしていた。数学や物理の問題では、正答できても、自分の解き方が気に食わないと言って、何時間も執着し、暗記科目では教科書の何ページのあの行がどうしても覚えられないなどと苛立っている。勉強中には眉毛をひたすら抜いて、感触を確かめるために抜いた毛を自分の唇にあてていた。眉毛が異様に薄くなると、今度は頭髪を抜き始めた。毛根の白い部分が冷たくて気持ちいいのだと言って、これも唇にあてている。端からみると頭髪を食べているようで、気味が悪かった。ある時突然、今まで執着していたのが嘘のように、全く勉強しなくなった。恵里は根詰めて勉強する必要はないと言っていたが、突然全く勉強しなくなると、それも理解できなかった。何かに憑かれたように執着し、飽きると突然やめてしまうところが、夫を思い出させた。

恵里が癌かもしれないと聞いて泣き、そうではなかったと知って泣いて喜んだ息子は、その頃とは別人のようになっていた。いつも生気のない顔をして、恵里とはほとんど話しすらしない。少しは勉強したらとどうかと言うと、息子は部屋の壁を思い切り殴って、穴を開けた。いつかパチンコ通いを責めた時に、夫が殴って開けた穴と合わせて、家には穴が二つになった。ローン返済が滞る家の薄い壁に、暗い口が開いていた。

恵里はほとんど絶望しながらも、まだ夫を諦めきれなかった。息子の学校の夏の課題で、将来の進路を考えるために、身近な人の職場を見に行くというものがあった。恵里も変わらず市の任期付職員として働いていたが、息子は自分ではなく夫の職場を見に行くと言う。夫の職場に行くには車が必要だったので、恵里はその日仕事を早めに切り上げ、夫の職場まで息子を送った。そこで働く夫の姿は恵里の想像していたものと全く違うものだった。夕方とはいえ夏の熱気の中、大型プレス機の前で、薄汚れた作業着の五十男が二十代の若者達に交じって働いている。製品をプレス機にかけるたび、機械からの熱風が直接当たり、夫の顔は赤く腫れ、汗が吹き出している。首に巻いた汚れたタオルで時折汗を拭くが、タオルの汚れのために、顔は靴墨を塗ったように汚れている。近づく息子と妻に気づき、作業を止めて振り向いた夫の表情は、恵里が感じた夫の惨めさとは裏腹に、生き生きと明るかった。

「おお、来たか。」

息子は無表情のまま頷いただけで何も喋らなかったが、夫は構わず、周囲の若い同僚に息子と妻を紹介する。息子との方が、年齢が近いであろう数人の若い同僚が作業の手を止める。

「こいつ、親に似ず頭がいいんだよ。困っちゃうよな。」

何が困るのかも分からないし、困っている表情には程遠い満面の笑顔だった。不良あがりといった感じの若い同僚に向かって夫は言ったが、若い男達は嘲るような薄笑いを顔に浮かべて互いに見合っただけだった。そんな同僚の様子に夫は気づいていないのか、顔から噴き出す汗を拭きながら、夫は高揚した様子で、息子は県下で一番優秀な高校に行っているのだとかを、プレス機の音に掻き消されないよう大声で言っていた。息子は相変わらず何も喋らず、表情も崩さずに、そんな夫をただじっと見ていた。

夫は7年前に、零細企業とはいえ、将来は幹部になる可能性もあるとして、営業職の職員として採用されたはずだった。途中で現場労働者に変えられたのかもしれなかった。いや、もともと幹部職員の可能性などなく、営業職というのも夫の嘘で、最初から現場作業員として採用されたのかもしれなかった。夫の嘘ではないとすれば、人を疑わぬ夫が会社から騙されたのかもしれない。

最初に転職した会社では仕事の愚痴や同僚への不満を口にしていたが、今の会社に転職してからは、考えてみれば、夫の口から仕事の不満を聞いたことがなかった。甘い夢ばかり見ていると思っていた夫は夫なりに、この会社に転職した時点で、覚悟を決め働いてきたのかもしれなかった。自分よりずっと若い同僚と、汗と汚れにまみれて働く姿を息子や妻に見せるのを躊躇っても、敢えて明るく振舞っているのかもしれない。パチンコをやる以外、夫は優しい人ではなかったか。自分もかつて夫の優しさに惹かれたはずなのだ。借金くらいで、金で、夫への愛を失ったのは自分なのではないか。夫の本来の優しさを忘れ、夫を最初に裏切ったのは自分なのではないか。

夫はギャンブル依存症という病気なのだ。夫を責めてきた自分が間違っていたのではないかと考え、ギャンブル依存症の治療を行う病院に一緒に行こうと提案したり、依存症者達が共に依存克服を目指す団体への参加を勧めたりした。「俺は病気なんかじゃない。大袈裟だ。やめようと思えばやめられる。」

夫は全く取り合わない。スポーツを一緒にやろうと提案したり、楽器をやろうと誘ったりもした。音楽ならばと言うので、安売りしていた中古の電子ピアノとサクソフォンを買った。夫は数日楽器に触れただけで、それ以降楽器はケースごと埃をかぶっている。恵里だけがしばらく楽器を練習し、好きな曲を弾いて夫に聴かせてみたり、下手な自分の演奏を録音して、車で流したりしたが、夫が関心を持つ様子はなかった。一人で練習するのが空しく思えて、恵里も楽器に触れなくなった。パチンコが止められるならなんでもいいと、テレビゲームの類も勧めて、夫は一瞬夢中になったが、結局続かなかった。

今年に入って、夫の様子がさらにおかしくなっていくのに気が付いた。珍しく早く帰宅する日がずっと続いていたが、言葉数がいやに少なく、目は窪み、表情が常に暗い。夕食はほとんど口にせず、毎晩泥酔するまで酒を飲む。酒焼けで黒ずんだ顔が、日に日にやつれていく。髭も剃らず、ほとんど無い頭髪が乱れている。痩せていくのに、腹だけが膨れたままで、その容貌はまるで妖怪餓鬼だった。煙草を日に何十本も吸うせいか、痰が絡む咳が止まらなく、ぜろぜろと音をたてる。

ほどなく、サラ金業者からの通知が届いた。恵里の全く知らぬところで、自宅にサラ金業者の抵当権が設定されている。まさかと思って箪笥の中の生活費用の通帳や、恵里が預かっていた息子の通帳を確かめると、預金が全て引き落とされていた。息子の通帳には毎年のお年玉で貯めた十万円に満たない額が入っているだけだったが、息子名義の通帳と分かった上で、少額にもかかわらず全額なくなっていることが、かえって事態の深刻さを表していた。夫は例によって、知らないと嘘をつく。泥棒にでも入られたのではとないかと言う夫の言葉を聞いて、怒りを通り越して、悲しみしか感じなかった。

複数社からのものを合わせて、借金は二千万弱に上っていた。借金の方は大丈夫だ、問題なのは会社から借りた金なのだと意味不明なことを夫は言う。悪びれるわけでもなく、逆に怒鳴るように話す夫の話をまとめると、つまりサラ金業者4社からの借金に首が回らなくなり、会社の金を一時的に借りたという。借りたというのは夫の勝手な解釈で、会社の金庫から金を抜き取るという、実際は窃盗行為だった。明後日までに三百万を金庫に戻さなければ、会社に自分の行為がばれるという。翌日、任期付職員の万年月額給与19万8千円の中から、息子の大学資金や結婚費用にもゆくゆくは充てようと、こっそり貯めていた通帳から預金全額を下ろした。残高欄がゼロになった通帳を見ると、自分は十数年、家庭のため子供のためと思って働いてきたが、実際は無数の銀の玉を買うためだけに働いてきたのだと知った。家の貯金では全く足りず、残りはまた夫の両親に頼った。両親の現金預金もほとんど底をついていたので、土地を売って金を作った。何もかも銀の玉に変わっていくように恵里には思えた。

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