【M男の欲望】第14話「郁男の禁欲49日目」

愛の小説

49日目

 一週間以上仕事を休んだことを、会社は勝手に母親が亡くなったためだと解釈した。郁男も別にそれをわざわざ否定しなかったので、無断欠勤は咎められたものの、それ以上の処分はなかった。母の葬儀が終わった後、仕事に行けたのは、やはり母のおかげだろう。あのまま、部屋に籠って自慰を続けることを母が望むはずがなかった。

 職場に顔を出してみると、弁当を買えと強要してきたあの斉藤も含めて、誰も郁男のことなど既に気にしていなかった。はじめは、職場で涙を見せた男を気遣って、気にしていないふりをしているのかと思ったが、そうではなかった。郁男が休んだせいで、自分の仕事が増えた者は苛立ってはいたが、結局皆自分のことで手一杯で、他人のことなど、どうだって良いのだ。

 職場では、業務上必要なこと以外、誰とも口を利かぬようになった。愛想笑いを浮かべることもなくなったし、職場の飲み会に参加することも一切なくなった。仕事が片付けば、上司や同僚を待たずにさっさと帰宅する。別にたいした問題は起きなかった。こいつは自分の殻に籠った、喋らない無表情な奴、そう皆に認識させればいいだけのことだった。学生の頃のように、執拗に郁男の殻を破ってこようとする者はいなかった。

 問題になったとすれば、些末なことだが、これまで郁男がやってきた雑用をやらなくなったことが原因だ。職場の皆が参加する飲み会は、ほぼ毎回郁男が幹事をやっていた。郁男が仕事に戻ってすぐ、課長が少し早めの暑気払いをやろうと言い出したのだが、当然郁男が幹事をやるのだろうと皆思っていたようだ。課長が決めた日付が近づいてきた時、同僚の一人が郁男に聞いてきた。

「そういや、飲み会の場所とかどうなってる?もう案内メール送ってたか。」

「知りません。私は行きませんし。」

表情を変えもせずに郁男は応えた。郁男がやることとされていたのは飲み会の幹事だけではない。

「おい、最近、用紙も補給されてないし、ゴミも溜まってるぞ。今もシュレッダーのゴミがいっぱいになってる。」

「それは気づいた人がやるべきでしょう。私だけの仕事ではないです。」

その同僚は明らかに不満そうな顔をしていたが、何も言い返してはこなかった。弁当の買い出しと同じことだった。自分が今まで何も言わずにやってきたことが、自分がやらねばならぬと勝手に思ってきたことが、今の状況を作ったのだ。今まで自分のしてきたことは、職場への貢献でも、同僚への配慮でもなんでもない。自己犠牲に一人満足している単なる自慰に過ぎない。愛想笑いも、弁当の買い出しも、職場での雑用も、全部そうだ。そんなものは愛ではない。本当の愛は、自分の利己心を、境界をきちんと主張した上で成り立つものだ。

 上司や同僚の仕事が終わるのを意味もなく待つことを意味がないと感じているならば、飲み会に参加したくないと思っているならば、それを主張せねばならない。一人が我慢することが、周囲の我慢を強要する。自分がよかれと思ってやることが、我慢だ、愛だと思ってやることが、皆を不幸にする。

 母の人生もそうだ。母は、父との間に自分の境界を作らなかったせいで、ああいう人生を送ったのではないか。母にとっては酷だが、父が何度も多重債務者になったのは母がそれを助けたからでもある。母もそれに気づいて離婚を決意したのではないか。自分を犠牲にすることは、結局、自分のためにも相手のためにもならない。自分の境界をしっかり持たねば、本当の愛など与えることはできない。

 植物にしろ、動物にしろ、体の境界の内側を自己として、それを守るように生きている。いや、生きるためにそれを守っている。ゾウリムシのような原生生物ですら、細胞膜の内側を守る。人間も同じだ。皆がいろんなところで境界を作る。自分という個体を守るための境界、己の遺伝子を残す配偶者や子供を、家族を守るための境界、国を守るための境界。境界の内側を確保したうえで、はじめて他者に愛を与えることができる。

 しかし、そんなものを、自分の境界を守ることに何の意味があるのか。自分の境界を守った上での愛に何の意味があるというのか。自分の境界を守ることが、その上での愛こそが正しいというのは、母の人生が間違っていたというのは、あまりに寂しくはないか。

 愛だ、利己心だなどと思考を巡らしても、自慰がしたくてたまらない。結局、俺は俺の利己心から、欲望から、境界から、逃げられぬ。そして、罪悪感や後悔から、自慰によって逃げようとする。

 母が死んでしばらくは、何をしていても、母を無視して自慰に耽る自分の姿が頭から離れなかった。暗闇の中で、脂ぎった己の顔だけがディスプレイの光に照らされ浮かびあがる。こちらが叫ぶと、背中を丸めてディスプレイに見入る男は手を股間の蛇口に添えたまま、顔だけゆっくりこちらを向く。赤く充血した目から血の涙が流れていた。毎晩、決まってそこで目が覚めた。

 空いた時間はほとんど全てを運動に使った。肉体を追い込んでいる時だけ、罪悪感や後悔から解放されるように感じた。毎朝早く起きて走り、夏の日差しの中、休日も走った。炎天下の公園には、あいかわらず男のラッパが鳴っていた。

 平日夜や週末の柔道教室にも通い続けた。一か所の教室では毎日練習できないと、別の教室にも参加するようになった。同じ柔道教室に通う中年の男に、ウエイトトレーニングを習い始めたりもした。汗をかいた分だけ、己の体から汚れた膿が流れ出る気がした。柔道場にふいに吹き込む夏の夜風が心地よかった。

 四十九日法要、納骨に備え、母の遺物を伯母が整理したのだろう。一週間前に、写真アルバムが何冊も郁男に送られてきた。郁男が生まれた頃から小学生頃までの家族写真だった。父母が離婚した時、母と郁男はほとんど身一つで家を出たから、母がアルバムを持っていたことは意外だった。郁男が生まれた頃の写真の脇には、その一つひとつに小さなカードが添えられてコメントが書かれている。生まれて間もない郁男と父母の3人で映る写真には「パパみたいに、優しくて芯が強い人になりますように」と書かれていた。

 伯母が母の遺物の整理を始めているのならば、自分は今度の納骨に備え、母が入る墓地をきれいにしておこうと思った。自分がもし死んだら、継父の家の墓でもなく、母の実家の墓でもなく、教会の共同墓に入れてほしいと継父に言っていたという。母は離婚した後、友人の紹介で近所の教会に毎週末通うようになった。継父はクリスチャンではなかったが、ボランティアで協会の屋根を修理したり、コーラス隊なるものに参加したりしていて、そこで母と継父は出会ったのだった。骨は教会の共同墓に入れ、葬儀、法要を仏式でやるのはおかしな話かもしれぬが、母はそんなことは気にしないだろうと思う。教会の共同墓地に行くと、既に継父が片付けてくれたのか、以前下見した時には墓の周りの雑草が伸びきっていたのが、全てきれいに取り除かれて、墓石は磨かれ花が供えられていた。

 法要と納骨を無事済ませ、会食中に伯母と継父に礼を言うと、二人ともそれは自分がやったことではないと言う。それでは、共同墓を片付けてくれたのは教会だろうと連絡すると、教会でもやっていないと言う。法要を頼んだ寺に聞くと、墓の準備は各家でやることであり、寺ではやっていないということだった。ただ、何週間か前に、母の法要をやる予定はあるかと聞きに来た人がいたという。関係者だと言うので予定を答えたが、ならば納骨はどこにするのかとまで聞くので、不審に思ったという。それを聞いて、写真のことも、墓のことも郁男には合点がいった。

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