【最終話】M男の欲望  第16話「郁男の禁欲91日目・0日年目」

愛の小説

91日目

 昼休みに、食事を終えて自席に座っていると、熊谷氏が近付いてきた。職場の給湯室で会えば挨拶はしていたし、特段彼女を避けていたわけではないのだが、母が亡くなってから、ほとんど話しをしていなかった。

「佐野さん、金曜日に課の若手で飲み会やるんですけど、来ませんか。」

飲み会など、ずっと参加していなかった。課全体参加の飲み会は参加を断っていたし、職員同士の自発的な飲み会は誘われもしなかった。彼女に誘われたことで、気持ちが揺らいだ。

「いや、俺は……」

小声で言い淀んだところで、近くにいた斉藤が口を挟んだ。

「熊谷さん、そんな奴、誘わなくていいよ。場が暗くなるだけだって。」

「一人だけ誘わないなんて、おかしいじゃないですか。仲間外れにしてるみたいで。中学生じゃないんですから。」

郁男はもうどちらでも良かったが、斉藤は中学生呼ばわりされて、頭にきたらしかった。

「M男にこだわるなんて、熊谷さん、実は変態だろ。夜はM男を責めるのが大好きな変態とか。」

皆に聞こえるように斉藤は言った。郁男は思わず立ち上がっていた。

「俺のことはいいけど、熊谷さんには、謝れ。」

「おいおい、その口の利き方はなんだよ、先輩に向かって。だいたい、お前最近ずっと調子に乗ってるんだよ。なんでちゃんと仕事やらねえんだ。」

「先輩面すんな。ちゃんと仕事やれって、弁当の買い出しとか、ゴミの片付けとか、雑用のことを言ってんのか。そんなのはお前がやれ。勘違いして、調子乗ってんのはお前の方だ。」

斉藤は怒りで耐えられぬといった感じで、突然郁男の胸倉を思い切り掴み上げた。以前は威圧感を覚えた相手に、今は不思議と気持ちが落ち着いていた。一瞬相手に持ち上げられたが、柔道の組手を外すのと同じ要領で、相手の手は、いとも簡単に外れた。同時に、後ろに離れ、相手との距離を作った。相手が再度不用意に近づき、郁夫の胸倉を掴もうとしたところ、両足が揃って接地した瞬間に、脚を思い切り横に刈った。斉藤は大袈裟に見えるくらい大きく転倒した。机にぶつかり、大きな音を立てて物が落ち、周囲の同僚ほぼ全員が振り返る。郁男は、間髪入れず、床に寝転ぶ斉藤の背中に自分の腹をつけ、羽交い締めの体勢に入っていた。静止する同僚を無視して、一気に、思い切り、首元の頸動脈を、相手のシャツを使って絞め上げた。周囲がやけに騒がしい。斉藤は始め、捕まった蜻蛉のごとく羽をばたつかせて逃れようとしていたが、背中に密着した郁男が力を込めると、急に動かなくなった。黒い快感が頭の中でどろりと流れる。斉藤の体から力が急に抜け、体重が郁男にかかる。斉藤は落ちていた。

 何人かの同僚が斉藤を囲み、抱きおこして背中をさすっていた。斉藤は何度も咳き込み、その場で座ったまま、まだ虚ろに俯いていた。郁男は立ち上がり、同僚の囲みを抜けて、立っていた彼女に近づいた。

「俺のせいでごめん。でも、あんな奴らとの飲み会に行きたいとは思わないんだ。だけど、今度二人で食事に行きませんか。」

彼女はしばらく、目の前の光景に驚いたままの表情をしていたが、

「もちろん。」

そう言って、笑顔になった。大きな口からこぼれる白い歯。よく知っている笑顔。何もかも分かって許してくれる笑顔。郁男の目の前で、恵里が笑っていた。何かが弾けて混ざり合った。

 

0日年目

 郁男の、恵里の、笛吹の、体も心も、欲望も愛も、悲しみも喜びも、全てのものは、エネルギーは、玉となって波となって、混ざり合って一つになって無になった。そして、またそれは放たれる。玉は隙間なく、境界なく、無限に連なり、弾き合い、混ざり合う。玉はどこに在るのか。いや、混ざり合うも、在るも無いもない。全ては既に一つの玉なのだ。玉は混ざり合い、玉になり、分かれ、混ざり、玉になる。玉はモノであり、意思であり、エネルギーである。境界はあるように見えて、ない。色即是空、空即是色。無限の全てはつながる一つで、全ての一つは無限の無だ。ただ、全ての一つが変化するだけだ。そして、俺もお前も、その一部だ。

(おわり)

コメント

最近のコメント