【M男の欲望】第15話「郁男の禁欲70日目」

愛の小説

70日目

 柔道の練習後、昨晩久しぶりにスーパー銭湯に一人行った。以前に来た時には、若い女を目で追っては、その女達が風呂に入る様を想像していたが、今は女が通り過ぎても気にならなかった。禁欲期間が2ヶ月を超え、性欲が逆に落ち着いてきたのを感じる。落ち着いたというよりむしろ、筋肉同様、使わないものは衰えるのか、勃起の回数が減り、性欲の減退すら感じていた。

 風呂から出た後、食事も済ませていこうと、スーパー銭湯内の飲食スペースに寄った。そこは百畳ほどの広い座敷になっており、そこで食べ物を注文し飲食できるようになっている。畳の上に置かれたテーブルを家族、友人などで囲んで寛げるスペースで、座敷の端にはステージまであり、カラオケ等もできるようになっていた。座敷に近づいていくと、耳覚えのある楽器の音が聞こえてきた。

「湯遊館 休日夜のサックスショー ~お食事処でくつろぎの音色を~」

座敷の手前に案内看板が立てられ、下手な毛筆で書かれていた。ステージから離れた入口から入ると、座敷は食事をする家族連れなどで溢れている。郁男のように一人の者はほとんどいない。パジャマ姿で跳ね回る子供、それをたしなめながらラーメンをすする親達、座布団の上で横になり、口を開けて眠る祖父、家族の光景だった。多くの家族や友人同士の集団の後ろに、ステージの上で、男がひとり演奏しているのが見えた。老いた河童が皿を禿散らかし、小さな背中を丸めてラッパを吹いていた。食事や会話の雑音の中、男の演奏に注意を払っている者は誰一人いないのではないかと思う。こんなところでも演奏していたとは知らなかった。郁男は座敷に座ることもできず、その光景を見ていた。男は続けて何曲か演奏したのち、マイクを握り、聞いているとは思えぬ客に向けて喋りだした。

「次が最後の曲です。最後の曲は、こんな年でちょっと恥ずかしいんですが、私の好きな人が一番好きだった曲です。その人のおかげで自分はこの楽器にも会えたし、もう信じてもらえることはないのだけど、自分は変わることができました。歌詞が後ろのスクリーンに出ます。有名な曲だし、最後の曲なんで、良かったら一緒に歌ってください。」

ピアノの伴奏がスピーカーから流れ、男が演奏を始める。ステージ近くのテーブルで、したたか酔った親父が一人立ち上がり、歌詞が表示されているスクリーンを見ながら歌い出した。

小さい頃から、何度も繰り返し聞いてきた、懐かしい曲だった。聞き覚えのある下手なピアノの録音演奏に合わせて、サックスの音が何度も小さく震えた。母が死んでから一滴も出なかった涙が溢れて、止まらなかった。

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