【M男の欲望】第13話「郁男の禁欲1日目」

愛の小説

1日目  

 嘘だけはつきたくなかった。自分は最低であるべきだ。誰とも口をきかず、ただそこに座っていた。伯母は、郁男が喪主を務めるべきと言っていたが、喪主は母の再婚相手にやってもらった。俺は母より自慰を選んだ男だ。もはや出す精液も涙もない。涙など出す資格はない。

 昨日、自慰後の眠りから覚めたのは、夕方だった。薬のせいか、背中に己の精液がべっとり付着しているのも気にならず、固い床の上で長い時間眠っていた。シャワーを浴びた後、携帯電話に目を遣ると、母からの着信履歴が10回近く残っているのにようやく気が付いた。何事かと折り返すと、母の再婚相手が出た。母が亡くなったという。血の気が頭から一斉に引いていった。朝方洗面所で倒れている母を見つけ、救急車で病院へ搬送したという。見つけた時にはすでに意識がなかった。くも膜下出血で、医者からは手の施しようがないと言われたという。病院に搬送されてから、数時間後に意識が回復しないまま母は死んだ。継父は病院から、母が握りしめていた携帯電話を使って何度も郁男に電話を掛けたが、つながらなかったと話した。人に頼んで、郁男の家まで行ってもらったが、鍵が掛かり呼んでも出ないので、不在だと思ったという。

 病院に着くと、横たわる母の周りを数人が囲んでいた。母の隣で大袈裟に泣いていた伯母が、部屋に入ってきた郁男に気づいて、彼の手をとり母の傍まで引き寄せた。顔は見るも無残に腫れあがり、自分に似ぬ母の美しい顔はそこにはなかった。郁男はその顔をただ黙って見下ろしていた。伯母が親戚と思しき人達と、通夜は明日だなどと話しをしているのが不快だった。

  通夜の司会女のわざとらしい口調にも、坊主の訳知り顔にも虫酸が走る。知らぬうちに、郁男が親族の代表で挨拶をする番になっていた。通夜や葬儀の時の挨拶など、わざとらしくて嫌いだったし、自分が人前で話すことなど、ない。伯母に促されて、前に立った。生気の無い表情で、視線を落としたままに喋り出す。

「見たらわかると思いますが、僕は母に全然似てません。小さい頃から、母は美人で、親父は格好悪かった。母に似てると言われたかったが、一度も言われたことがないです。いつも父に似ていると言われてきました。このなで肩も、小さい体も、顔も、短い手足も、自分の体が全部醜く見えた。でも、親父だって、俺だって、好きで小さいわけでも、醜いわけでもない。好きで弱い奴なんていないんです。鍛えられる?人間変わることができる?変われる奴は元々強い奴です。変われないほど弱い奴だっている。強さだって、性格だって、好き嫌いだって、自分で選べるもんじゃないです。犯罪者だって好きで犯罪するわけじゃない。興味や好きなことが社会にうまく合ってる奴はいいですよ。でも、それは自分で決められない。幼児を殺して興奮する人間になりたいなんて、誰が思うんですか。気づいたらそういう人間だっただけですよ。お母さんは、そういうこと、全部分かってた。分かってて、親父や俺を愛してくれた。」

通夜に集まった人達の多くが、怪訝そうに自分を見ている。わけのわからぬことを言っているのは自分でも分かっていた。自慰中毒の言い訳なのか、己の人生の言い訳なのか、母に対する言い訳なのか、親父のための言い訳なのか、自分でも分からなかった。父には母の死を知らせなかった。

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