【M男の欲望】第10話「恵里の禁欲28年目(リセット0年目)」

愛の小説

28年目(リセット0年目)

7年前の借金のあと、何度も離婚を考えた。それでも離婚できなかったのは、息子のためもある。しかし、息子は奨学金で大学に行くと言っていたし、息子のためより、むしろ義父の介護がその理由だった。義父は7年前の借金が分かってほどなく、脳梗塞で倒れた。義母は大分前から糖尿病を患っており、四六時中、体の不調を訴え、何に対しても愚痴ばかり言っていたから、義父の介護を期待できる状態ではなかった。義父が脳梗塞で倒れたのも、愚痴ばかりで家事も農作業もほとんどやらない義母に代わって、義父が働き詰めに働いたせいかもしれなかった。そうして蓄えた金が、息子の借金で消えていく。農業の肉体的な疲労に加えて、3度目の夫の借金は義父にも相当なショックを与えたはずだ。

義父が脳梗塞で倒れる前まで、恵里はほとんど離婚を決めていた。いつ言い出そうかという段になって、義父が倒れた。利き手側の右半身が麻痺してしまった義父に対して、義母も夫も驚くほど無責任だった。義母は相変わらず自分の体の不調と、義父が働けなくなったせいで滞る家事と農作業の愚痴ばかり言っていた。義父の面倒を見るのは佐野家に嫁いだ恵里が当然やるべきことだと考えているようだった。義父母と別居し、農家を継ごうとしない恵里達夫婦に、以前から文句ばかり言っていたが、義父が倒れてから、それがいっそう増えた。義父母とは別居し、会社員として働くことを選んだのは夫であったが、恵里が夫にそうさせていると義母は考えていた。

夫は夫で、自分は仕事で忙しいという言い訳をして、義母の愚痴、文句をいかに避けるかしか考えていないようだった。

「親父のことで頼れるのは君しかいない。」

借金すらなかったことのように、夫は図々しくもそんなことを恵里に言った。夫と同じようにフルタイムで働く恵里に、子育ても家事も全て任せきりにしてきたのは誰だったか。これまで、糖尿病の義母の通院に付き添うのも恵里だったし、夫の実家の手伝いもほとんど恵里の役目だった。その上、自分の養父の介護も、恵里にやらせようというのか。自分が去って、この義母と夫が惨めに崩れていくところを見てみたいとさえ思った。

それでも、離婚を思い留まらせたのは、結婚2年目に義父から言われた、かつての言葉だった。夫の借金が初めて分かり、義父母にお金の相談をしに行った帰り、

「結婚の時は、すまなかった。お母さんがああいうふうに反対して、おれは何も言えなかった。すまなかった。恵里さん、いつも本当にありがとう。これからも息子をよろしくお願いします。」

義父と2人だけになった時に、申し訳なさそうな笑顔を見せて義父はそう言った。脳梗塞で倒れた後も、義母に文句ばかり言われて黙っている義父を見るたび、恵里はその言葉を思い出す。家を守るために好きでもない人と結婚をし、休みなく働き、甥の借金を払い続けてきた。この人は私と同じなんじゃないか。この人を見捨てることは自分を見捨てることだという気がした。自分が頑張ればどうにかなる。もう少し、頑張ろう。

仕事の帰りに義父母宅に寄って、食事を何食分か作り、義父の着替えや入浴を手伝うという日々が続いた。自宅に帰って、また食事を作り家事をする。

その頃、重ねて、実父が脳出血で倒れた。実父が亡くなるまでの2年間、姉と交代での実父の介護まで加わった。夫は相変わらず遅くに帰ってきて酒を飲んでいたが、もうそんなことを気にしていられぬほど、毎日がへとへとだった。

夫はさらに荒んでいった。容貌も行動も出会った頃とはまるで別人のようだった。いつも不機嫌そうで、たまに口を開けば威圧するように話す。一方、身体は貧相で、威圧感のかけらもない。年々背中は小さく丸くなっていくのに腹だけが大きくなっている。頭頂部の髪はほぼ全てなくなっていたが、前髪と無精髭だけは残し、浮浪者になった河童だった。ギャンブルが夫の人格まで変えてしまった。それとも、夫は何も変わっていなく、自分が本当の夫を見抜けなかっただけであろうか。

今年に入って、四度目の借金が分かった。また二千万円近くの借金ができていた。もう怒る気力さえ湧かなかった。親への返済と自宅のローンですでに貯金などというものは一切ない。どうやったらパチンコでそんなに大金の借金ができるのか理解できなかった。

夫はなぜか怒っていた。借金について謝りもせず、ただ苛立ちを露わにする。謝ったら負けだとでも思っているのか、理解不能な振舞いだった。義父が土地を売り、農協から下ろしてきた大金を持って、サラ金業者を何社も返済に回る。夫と義父を乗せた車を恵里が運転し、最初の会社に着いたが、

「俺はあそこには行かない。ここにいる。」

夫は車から出ようとしない。

「あなたの借金でしょ。なんで自分が返しに行くことくらいできないの。」

夫の勝手を涙ながらに詰ったが、仏頂面をして黙るばかりで夫は全く動かない。

「恵里さん、もう、いいから」

数年間のリハビリの末、杖をついてなんとか歩けるようになった義父が車を降り、びっこをひいてサラ金業者の建物に向かう。左右の平衡すら保てぬ老いた亀が歩く。たまらず恵里は追いかけた。振り返ると夫は車の中でそっぽを向いていた。離婚をはっきり決意したのは、その瞬間だったのではないか。

社会人になっていた息子も離婚に賛成し、夫に離婚を切り出すと

「おれには君しかいない。俺を見捨てないでくれ。」

などと今更そんな言葉を夫は言ったが、もう耳にすら入らなかった。恵里の離婚の意思が変わらないとなると、今度は、夫は激怒した。壁を殴って再び穴を開けたり、家の物を破壊したりする夫を見て、いつ自分が暴力を振るわれてもおかしくないと感じた。どうか離婚してくれと懇願し、ほとんど逃げるように家を出て、息子と二人で安い2Kの部屋を借りた。惨めだった。夫と出会って30年以上、自分は一体何をやってきたのか。私の愛でいつか変わると思っていた。借りたぼろぼろの安アパートが惨めな自分の人生を表しているように思えた。

しばらくして、署名捺印された離婚届を義父母経由で手に入れた。家出をされて諦めたのか、夫の汚い字で、殴り書きのサインがしてあった。義母はその書類を恵里に手渡しつつ、書類の意味を分かっていないのか、恵里がしっかり夫を支えてくれないから家が困っているだとか、農業を今後はきちんとやってもらわねば困るなどと、まだ言っていた。義母の愚痴の傍で、義父はただ黙って車椅子に座っていた。俯いて、左手に持つ杖をぼんやり見ている義父に顔を寄せた。

「お義父さん、もう会えないんだ。お義父さんのこと見捨てようなんて思ってないんだけど、もうだめなんだ。もう会えないんだ。ごめんね。」

義父はすべて分かっているというふうに、恵里を見て黙ってうなずいた。義父の目に涙がいっぱい溜まっているのを見て、恵里は涙が止まらなくなった。

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