モテてもモテなくても、金持ちでも貧乏でも、感じられる幸福量は同じ

生き方

幸福・幸せとはなんだろうか。その反対の不幸・不幸せとは何だろうか。色んな意見があると思うが、幸福も不幸も脳で感じるものとすれば、脳内で幸福・不幸を感じさせる物質をどれだけ受容したかで幸福量・不幸量を測ることができる。

そう考えると、どんな金持ちだろうが、女とやりまくってようが、薬物の王と言われるヘロインをキメまくってようが、感じられる幸福量には上限があるってことだ。逆に、不幸の感覚にも上限がある。どんなに貧しかろうが、一生童貞だろうが、体中の皮をゆっくり剥がされようが、感じられる不幸にも上限がある。

我々の脳は慣れるものだというのがその理由の一つだ。金持ちになって豪華な生活を送っても最初は幸福に感じても、その生活に慣れれば、次第に幸福は感じづらくなる。セックスだってオナニーだって同じだ。次から次へと新しいオカズやsituationを求めることになる。薬物の快感も徐々に薄れていくという。逆に、貧乏暮らしだって、童貞だって、オナ禁だって、痛みだって、慣れるものだ。慣れなくても、人間の脳には防衛機能もある。不幸や痛みを感じず、忘れたり、麻痺できるようにもできている。

逆に、貧乏であれば、少しの贅沢に新鮮で大きな喜びを感じることができる。ビルゲイツの食う300万円のディナーより、飢えた人間の食うチャーハンの方が喜びは大きいかもしれない。童貞のやる1回のセックスの喜びは、ヤリチンの100回のセックスに勝るかもしれない。経済学の限界効用の考え方にも通じる。

幸福も不幸も所詮は脳内物資の受容でしかない。そしてその受容は、各人の置かれた状況や場所に関係なく可能なものだ。そう考えると、我々がやるべきことは幸福そうな人を目指すことではない。同じ状況に自分を置いても、自分が幸福を感じるとは限らないし、幸せそうなのと、幸せを実際に感じられることは全く別物だからだ。また逆も然りで、不幸そうなのを、不幸を感じるのも全く別物だ。各人によって、どういう時に幸福を感じるのか、何によって幸福を感じたいのかはかなり異なる。どういう時に不幸を感じる、何によって不幸を感じたくないのかもまた然り。つまりは、どう生きたいかという生き方の問題である。どうやって生きて、死んで生きたいか。

どんな状況でも人は幸福も、不幸も感じることができる。だって、外部環境は、脳内物資の放出を促すきっかけに過ぎないのだから。それをどう解釈するかで、感じ方は変わる。つまり何が言いたかったかというと、幸福や不幸は状況に依拠しない。重要なのは、社会や周りの人間ではなく、自分が、何を求めていて、何を求めていないかよく考え、それを指針に生きていくということだと思うのです。

 

 

 

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