オナニーの罪悪感から考察するオナ禁すべき理由および生き方の指針

弱い男の生き方

まとめ

〇 オナニーの罪悪感は、オナニーを止めるべきとする己の心の声である。

〇 オナ禁も人生の選択(学業・仕事・恋愛など)も自分の心の声に従え

〇 心の声≠欲望ではない(ただし、心の声≒欲望の場合も多い)

〇 心の声をよく聞くには、心を澄まし聞こえるようにしなくてはならない。集中するなどはそういう状態。心を清くするという考え方もある。オナ禁はその強力な助けになる。

自慰の罪悪感について

みなさん、オナニーをはじめた頃のことを覚えていますか。私は覚えていますし、みなさんも覚えているんじゃないでしょうか。初期のオナニーが記憶に与えるインパクトは大きいものだと思うからです。私は小学2年生の頃はじめたのですが、精液がまだ出ないオナニーをし、絶頂を迎えた後、毎回非常に強い罪悪感に苛まれたものです。手も使わず、液体も放出していないのに、毎回自分の体が汚れたように感じ、事後には石鹸で7回位も執拗に手を洗っていました。それが幼い自分なりの清めの儀式だったように今では思います。

やってはいけないことをやっているという感覚。それは不思議な感覚だったと思うのです。気弱な方は感受性が強い傾向にあると思うので、共感してもらえる人もいるかもしれません。オナニーという言葉も概念も知らずに、なぜ私は布団に擦り付け気持ち良さを感じるという行為に罪悪感を感じたのか。

罪悪感の正体について

あの罪悪感は年齢があがるにつれ、徐々に消えていきました。大学生の頃には自慰後にも後悔と虚無感を感じこそすれ、自分の体が穢れたというような罪悪感はほぼなくなっていました。あの罪悪感の正体はなんだったのだろうと時々考えます。

①科学的に考えてみると、成長期の自慰は、成長の妨げになるから、体のサインとして罪悪感を感じさせていたとも受け取れます。そう考えると第二次性徴終了後には罪悪感は薄れていったのも納得できます。

②少し宗教的な考え方をしてみると、自慰はよくないものだということをsomething big power(所謂神のようなもの)が己の体を通して語り掛けていたと考えます。往々にして子供の方が感受性が強いので罪悪感も感じやすいかと。胡散臭いでしょうか。

成長期の自慰は間違いなくすべきでなかった=罪悪感(心の声)は正しかった

その正体が何にせよ、今の私から考えても、幼少期・成長期の自慰はやるべきではありませんでした。私の身長や骨格が小さいのも、高校3年まで陰毛が生えなかったのも、自慰のその原因の一つであるやに感じます。極端に早漏なのも、性器の成長にだって影響しているかもしれません。なんでもかんでも自慰のせいにするのは間違っていますが、ひょっとするとこの気弱な性格も成長期の男性ホルモン不足・テストステロン不足などが関係しているかもしれない。

成長期の自慰は間違いなく控えた方がいい。精子は栄養の塊ですから。成長期に自慰をしていると、脳が女性とセックスできている=子孫を残す行為をできていると勘違いします。子作りは自己の生存につぐ優先順位の非常に高い事項ですから、自分の体・脳の成長を二の次にして、せっせと精子生産に励みます。成長期に体や脳に必要な栄養素、主にタンパク質が、体や脳に回らず、精子生産に回ってしまう。

あの罪悪感は心の声だったと思います。そしてそれは正しかったのです。成長期のオナニーは間違いなくやるべきではありませんでした。

心の声≠欲望ではない しかし、欲望・嗜好は行動選択の大体の指針

では、あの罪悪感が従うべき心の声であったとするならば、心の声とはなんなのか。多くの場合、心の声≒欲望ではあります。「欲望」というと、しばしば悪いイメージとともに語られますが、欲望は基本的に人間にとって良いものです。言わずもがなですが、睡眠欲も食欲も性欲も人間の生存・存続にとって不可欠なものです。欲望や嗜好によって人間はやるべきことを教えられているのです。

「嗜好」も欲望の一つであり、進むべき方向性を教えてくれます。食べ物の〇〇が好きとかは、あなたの体の設計・遺伝子にとって〇〇が求められているから〇〇が好きなのです。暑い気候が好きとか、早起きが好きとか、あなたの体との相性を教えてくれているのです。

〇〇がしたい・好きだという欲望・嗜好についても同様です。車がすごく好きとか、コンピューターが好きとか、デザインが好きとか、人生の進むべき方向性を、職業などを自分の嗜好や欲望が教えてくれているのです。最近、自分の好きなことを仕事にすべき、好きこそものの上手なれだからなどと、言われていますが、それは当たり前のことだし、そんなことを他人に言われなくても、自分の嗜好に突き動かされている人は勝手に動いています。有名な起業家にせよ、スポーツ選手にしても。

人生に迷っている人は、自分の嗜好や欲望に忠実であるべきだと思います。それが何か大きな力から与えられたあなたのこの世の中での役割だと思うからです。

なお、ここではM男の性的嗜好だったり、犯罪的な嗜好を持つ人については、話がややこしくなるのでやめておきます(参考記事はこちら

欲望や嗜好にだけ従っていればいいわけではない 欲望≠心の声ではない理由

言わずもがなですが、欲望、嗜好にだけ従っていればいいというわけではありません。欲望や嗜好というのは、かなりおおざっぱに我々の進むべき、または日々のやるべき行動をおおまかに指し示しているだけで、細かな部分には対応できていないからです。進化論によって考えれば、欲望や嗜好は、各人の生存にとって必要な形に、または有利と思われる形に、各人に形成されていったと考えられますが、現在の環境全てに対応できてはいないのです。

例えるならば、外部環境に対応アップデートできていないソフトウェアのようなものです。そのソフトウェアにとってみれば、最適化して課題に対応しているつもりでも、実は外部環境に適切に対応できていない。我々の欲望や嗜好はそのようなもので、大まかには方向性を示してくれるものの、完璧に現在の環境や細かな課題には対応できていないのです。

例えば、食欲は、人類が長く経験してきた飢餓には対応しているものの、飽食の時代には対応できていません。食欲に従って食べたいだけ食べれば太りすぎます。性欲、自慰欲求も、現代環境に対応できていないのです。例えばポルノなどは対応できていない状況の最たるものです。

心の声とは。心の声を聴くためには

本当に自分の人生にとって、よりよい方向に進むためには、欲望や嗜好だけではなく、心の声を聞き、それに従う必要があると思っています。心の声とは、欲望や嗜好などの本能的な部分ではカバーできていない部分を知るための、察知するための感覚といえます。人によっては理性と言うかもしれませんし、啓示的な何かと言うかもしれません。

心の声を聞くためには、心を穏やかに静かに整えねばなりません。欲望や嗜好に振り回されている状態は、穏やかな状態ではありません。一方、何かやるべきことに打ち込んでいる時、集中している時は、めらめらと燃えていても、心は落ち着いて静かなものです。

具体的には、体を満足させる行動ではなく、心を満足させる行動、選択をとることです。例えば、オナニーで言えば、刹那的な快楽よりもオナ禁による心の充足を選択するのです。そして、そのオナ禁は、心を熱いけれども穏やかに、さらにより良い方向に人生を導いてくれます。長期オナ禁者がいう「やるべきこと、するべき行動が分かる」とか「不思議な感覚がある」とか「人生がうまくいきだす」とかは、このことにも関係していると考えます。

万人向けではありませんが、宗教的な説明が嫌でない方は、その行動がholy(神聖)であるか、holyでないかで行動や思考を判断してもいいと思います。なお、これは作家の遠藤周作氏の受け売りです。例えば、人に親切にした時に、自分の心までいい気分になったことが誰にでもあると思います。そういう行動はholyです。逆にオナニーにより自己嫌悪を感じるならば、それはholyではありません。

「〇〇すべき」は必ずしも心の声ではない 「〇〇したい」に従ってもいい

私もですが、「〇〇すべき・すべきでない」と「〇〇したい・したくない」で迷うことがあります。「すべき・すべきでない」は必ずしも心の声でも、正解でもないです。「すべき・すべきでない」はしばしば間違った世の中の考え方によって、形成された自分の考え方や世の中の常識であることもあります。それよりも、素直に「〇〇したい」という自分の欲望・欲求・嗜好にしたがった方が良いということは往々にしてあります。

迷った時こそ、心の声に従うのです。本当に自分の心を満たすのはどちらの選択か。holyなのはどちらの選択か。特に、自分の人生にとって、重要な選択、例えば伴侶の選択、職業の選択、進路の選択などは、心を澄まして、自分の内なる声に従うべきだと思うのです。そのためにも、普段のオナ禁は重要だと思うのです。

以上、何事もなしていない何者でもない私が、偉そうに語るのです。

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