オナ禁24日目 信じるべき感覚

生き方

今日は朝から猛烈に首が痛い。あまり聞いたことがない言葉だが、私はギックリ首と勝手に呼んでいる。学生の頃やっていたスポーツで頚椎捻挫をしてから、ときおりこうしてギックリ首に見舞われる。

首が回らない。寝転んでいても痛い。痛くて寝返りすら打てない。今回はまだマシだが、ひどい時は息を吸うのさえ痛い。

そうなるとどうだ。朝出勤前の俺の思考のほぼ全てがこの首、肩周りの痛みに集中する。

普段、出勤前に考える本日の仕事のこと、将来のこと、その他いろんな思考は一切合切、ちょちょぎれて、思考や感覚はこの痛みについて集中する。

これは生物として当然かつ正しい反応だとは思うのだが、俺はここに、人間の感覚の疑わしさをいつも感ずる。

生物は、人間は、置かれた状況によって、感覚や気持ちや思考がいとも簡単に変わるものだ。

あいつは精神的に強いとか、弱いとかだってあてにならない。単に体が強いだけかもしれない。

色んなことが分かった気になっている人、腑に落ちた気になっている人だって、愛に溢れた人だって、身体状況や環境が変われば、分かっていたもの、身につけていたものが、ガラリと崩れて落ちることが往々にしてある。

例えば、モテ男で寛大な男が、重度の身体障がいを後天的に得て、大きく性格や考え方が変わることだってあるだろう。愛に溢れた行動をしていた人が、脳出血や脳梗塞後に急に自己中心的になることだってある。その逆もまた然りで、性格やものの考え方が変わることもある。

何が言いたいかというと、それだけ俺たちが感じているこの感覚はあやふやであてにならない、自らの身体状況や周辺環境に依存した、可変的な感覚だということだ。

では、俺たちは何を信じたらよいのか。感覚器を頼りに外部を知るしかないこの俺たちは。

デカルトは我思うゆえに我ありと言ったが、時々俺は思う。仮に全ての五感をなくし、それでも俺は我思うゆえに我ありと思えるか。俺は生きていると思えるか。そもそも俺は「思える」のか。

俺は、だが、環境や状況に左右されない、別の感覚があると信じたい。表面的な感覚を超えた何かが、俺たちの心の中に。

ブルーハーツは歌ってる

「見てきたことや聞いたこと  今まで覚えた全部  デタラメだったら面白い そんな気持ち分かるでしょ   答えはずっと奥の方   心のずっと奥の方  涙はそこからやってくる  心のずっと奥の方」

心の声を聴きたい。そしてその感覚を信じたい。以前こんな記事も書いた。https://ganbaremo.com/followthecall/

以上です。

コメント

  1. りんりん より:

    物事に絶対的な答えなんてないのですね。
    要するに自分の人生を生きなさいということですね。違うかな?
    とにかく首はお大事に。

    • 佐崎慎治 S野M男 こと 佐崎慎治 より:

      りんりんさま、温かいコメント有難うございます。要するにそういうことかもしれませんね。絶対的なものがない以上、他の人の価値観に沿って生きる必要なんてないですね。